KerttuによるPixabayからの画像

 理系の人と、文系の人……という分け方があるようだ。
 その両者で、ある事柄に対する認識や理解の仕方が違うということらしい。
 私はグラフィックデザインの仕事をやっていたりするが、根っからの文系というわけでもない。学生時代は電子工学を専攻していたし、最初に就職した会社も技術系だった。
 理系であると同時に、絵を描くことも好きだったため、途中からグラフィック系(文系)に転身した。
 とはいえ、下地が理系なので、絵を描いたりデザインをしていても、理系の発想や思考過程だと思う。
 そんな理系と文系に関する記事。

第8回 理系の会話がワカラナイ… | R25

「僕たちはあいまいさを嫌いますね。だから、会話の中で疑問点があったりすると『なんでそんな答えが出てきたの?』とか聞いてしまう。こちらは全く悪意なく、ただ言葉通りの意味で、純粋に質問しているだけなんですが、それを言うと文系の人には嫌われてしまいます」(ベイちゃん)

「僕も、会話や行動に対して『それはこうした方がいいのに…』と思うことが結構あるんですが、そのスイッチは会社に来たら切ることにしています。細かすぎて嫌がられちゃうので(笑)。ただ、ちょっとだけ言わせていただくと、会議で配布する資料には必ず見出しの頭と各ページに番号を付けておいてほしい。そうすれば『2枚目の3番ですが』というように、確実に素早く指摘できますから」(川本さん)

 そうそうと、頷いてしまった。
 デザイン業界(広告や出版も含む)では、指示が曖昧なことが多い。
「もっとカッコよく」
「このへん、いまいちなんだよね」
「ちょっと物足りない」
「ここんとこ、もっとキメテよ」
 などと、なんとなくの雰囲気でいわれることが多く、具体性に乏しい表現だ。
 デザインなんて感覚的なものなので、これが正解という決まったものがないから、印象論になってしまうことは多い。素人であるクライアントから、そういう曖昧な意見が出てくるのならまだわかる。
 だが、プロであるデザイナーやディレクターが、抽象的な表現で指示するというのは、どうにかならないのだろうか、と思ってしまう。

 曖昧な指示を受けとる側は、その言葉のニュアンスや雰囲気から、こういう方向なのかな?……と推測して、デザインを修正していく。とはいえ、デザインセンスは人それぞれ。センスの微妙なズレは必然的に起こる。
 許容範囲というのはあるから、その許容内でおさまればOKだが、外れてしまうとNGである。
 そのNGの理由に、具体的な根拠はないとこも多い。
「黄金分割から3mmずれているから、これではダメだね。ここは配色が心理的不安要素である、寒色系の領域が10%を超えているから問題がある」……などといった論理的な理由は存在しない。
 すべては「ちょっと違う」とか「好き嫌い」という感覚なのだ。

 デザインの仕事をしている人は、たいていは文系だ。
 そのためか、曖昧なままアバウトに仕事を進めることが多い。
 「このくらい、わかるよね?」とか「わかってるはず」という暗黙の了解を前提として、作業が進んでいく。
 だが、途中で仕事の方向性が違っていることに気がつくと、「それは違う。なぜそんなこともわからないんだ」と、振り出しに戻ってしまうことも少なくない。
 それだったら、最初に明確な方向性を示せばいいのだが、論理的に物事を進めたがらない文系タイプは、曖昧さを残したがる。
 それはなぜなのかといえば、具体的な指示をすると、その指示が間違っていた場合、責任が自分に降りかかってくるからだろう。曖昧にしておけば、指示を受けた者の判断ミス、解釈ミス、感覚の違いという理由付けができる。
 つまり、逃げ道を用意している。
 すべてがそうだというわけではないが、私が新米デザイナーだった頃に、上司や先輩からやり直し指示を受けたときの経過と印象は、曖昧さゆえの納得のいかない理由だった。最初からそういってくれればいいのに……と思うことに、度々遭遇したのだ。

 すべてが曖昧だと判断に困ってしまうが、かといってすべてが具体的だと困らない反面、自由さがなくなってしまう。
 要はバランスなのだが、具体性を要する指示と、自由な判断にまかせる曖昧さを、うまく組み合わせることが重要だろう。
 つまり、説得力を持たせる、ということだ。

 とはいうものの、文系の人は相変わらず文系で、理系人間はその曖昧な表現から、何が求められているのか、経験と勘で埋めていくしかないのだ。
 「もっとこうすれば、効率がいいのに」と思うことも多いが、あえて口出しはしなくなった。
 それこそ、文系と理系の「感覚の違い」だからだ。

 たとえば、データの管理と共有。
 1つの仕事を複数の人で分担して作業をしている場合、個々のパソコンのローカルディスク上でデータを扱っている。ある部分までAさんがやり、それをBさんが引き継ぎ、次にCさんが……ということもある。そうすると、作業過程の複数のデータが、それぞれのパソコンに存在し、どれが最終形なのかわからなくなってしまう。
 サーバーを介して、作業するディスクやファイルを共有すれば、こうした混乱は回避できるのだが、そもそもそういう発想が出てこない。一度、提案したこともあったが、「うちのくらいの規模じゃ、必要ないだろう」と見送られてしまった。

 データのバックアップも、それぞれが勝手にやっていて、バックアップを取っているのかどうかもわからない場合もある。ハードディスクがクラッシュしたり、バックアップとしてCD-Rに書きだしたものが紛失してしまったりすると、どうにもならなくなってしまう。
 万が一に備える、二重三重の安全策が存在しないのだ。文系の人は、そうしたリスクマネージメントに対しても、あまり熱心ではない。面倒くさいのかもしれないが。
 理系の人は、パソコンやデータは壊れるもの、エラーは起こるもの、として行動するが、文系の人は「なんで壊れるの?」という反応をする。
 理系と文系の溝を埋めるのは、なかなか大変なのだ(^_^;

 かくいう私は、データのバックアップは三重に取ってある。少なくとも、私の仕事に関しては、万が一の場合の対策は行っている(^_^)。

諌山 裕

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