「芸術」は人工知能の得意分野になる

昨晩のNHK「クローズアップ現代」では、人工知能による「芸術」について取り上げていた。
そこで問題提起されたのは、人工知能に芸術は作れるか?……ということだった。

進化する人工知能 ついに芸術まで!? – NHK クローズアップ現代+

ついに人工知能が芸術の世界にも進出!巨匠・レンブラントの筆致を見事なまでに再現した肖像画。わずか1秒で作られる交響曲。SFの名手・星新一から「らしさ」を学んだ小説は、文学賞の1次選考を通過した。しかし、人間の作品を真似た人工知能の芸術は『創造』と呼べるのか、疑問の声が上がる。一方、人間の『創造』も過去の作品のアレンジだ、という主張も。人工知能による芸術の最前線は、「創造とは何なのか」を問いかける。

妻と一緒に番組を見ていたが、何度かツッコミを入れた(^_^)。

TV「人工知能に芸術は作れるのでしょうか?」

「芸術とはなにかを定義しなきゃ」

TV「人工知能が作ったものは創作といえるのでしょうか?」

「創作とはなにかを定義しなきゃ」

TV「独創性がないのではないか」

「独創性とはなにかを定義しなきゃ」

TV「感情があるかどうかが大きな違いなのでは?」

「感情とはなにかを定義しなきゃ」

それぞれについて、人工知能を前提とした再定義をする必要がある。
絵画、音楽、小説といった作品は、人間が作る場合でもルールとパターンに基づいている。ルールの範囲内で様々なパターンを組み合わせることで、個性や新しさを表現する。
「創造」とはいうものの、無から生み出しているわけではなく、既存の作品に含まれるパターンを作家がそれぞれに抽出して、新しい組み合わせを試しているだけなのだ。その組み合わせは、わずかな違いを含めればほぼ無限通りが存在しえるので、「創造」しているかのように「錯覚」する。
言い換えると、芸術とは「錯覚」でもある。

芸術におけるルールとは……

絵画では遠近法や光源による陰影、あるいは構図といった幾何学的なものになる。絵のタイプによっては、描き方のタッチも要素のひとつ。遠近法が発明されていなかった時代の絵画は、描かれる対象の距離感や大きさに不自然さがあった。目で見える世界には遠近法が存在しているが、絵画として表現するときの方法を知らなかった。遠近法が本格的に絵画に取り入れられるようになったのは、1400年代以降である。

音楽のルールとは、リズムや和音、短調や長調、小節として区切られる旋律の集合体など、いろいろと細かい決めごとがある。心地よい音楽には、整然としたルールがある。
そして、パターンの繰り返し(リピート)だ。
リズムのリピート、同じ旋律を異なる楽器で奏でるリピート、印象的な旋律のリピートなど、音楽はある意味パターンのパズルでもある。
人工知能にとって、模倣しやすい、作りやすい作品だ。
人工知能以前から、自動作曲のアプリケーションはあったが、良し悪しは別にして音楽のルールに則った曲にはなっていた。音楽の良し悪しとは、人間が聞いて心地よいかどうかなので、心地よいパターンの組み合わせの法則がわかれば、「いい曲」というのは可能だろう。

小説でのルールとは、文法や言葉の選び方、描写の仕方、ストーリーとしての起承転結、どういうストーリーにするかの展開方法などだ。
これにもパターンがある。
あるシーンを言葉で描写する場合、単刀直入に見たままを記述するか、別のものに例えて間接的・抽象的に記述するかの2通りしかない。
たとえば、テーブルの上にあるリンゴを描写するとき。

テーブルの上の赤いリンゴ。

と書くのか、

鮮血のようなリンゴがテーブルに座していた。

と書くので、どっちが文学的か?……という違い。
小説ではストレートな描写よりも、抽象的な描写が多く出てくるが、それはイメージのパターン化である。物理的なリンゴとしてのイメージだけでなく、観念的なイメージを付加してリンゴに対する意味合いを変える。そこにどんな言葉のパズルのピースを加えるかで、リンゴは文学的になる。

人工知能ではないが、コンピュータで写真を画像加工することは簡単だ。
写真は「現実」そのものを写しているのではない』で使用したパプリカの写真をもとに、アート化してみるとこうなる。

▼オリジナルのパプリカの写真

オリジナルのパプリカの写真

▼水彩画風のパプリカ

水彩画風のパプリカ

▼油絵風のパプリカ

油絵風のパプリカ

▼鉛筆画風のパプリカ

鉛筆画風のパプリカ

これらは、Photoshopの「Snap Art – Alien Skin Software」というプラグインを使用したもの。画面上でのシミュレーションではあるが、それっぽくアートになる。どういう筆遣いをするかは、アルゴリズムしだいなので、人工知能がより人間っぽく模倣することは容易い。
それを芸術と呼ぶかどうかは、冒頭にも書いたように「芸術」の定義の問題なのだ。

「人工知能(AI)が人間を超えるかどうか?」
ということが、AIを語るときに必ずといっていいほど問われる。
ある種の「人間絶対論」みたいな考え方があるようで、超えられることに対する恐怖感が内在している。
だが、自動車が発明されて、人間より速く走れることを問題にしただろうか? 人間は飛べないが、飛行機が飛べることを問題にしただろうか?
機械は人間にはできないことを可能にする「道具」である。
コンピュータも、AIも同じ。ただの道具だ。
前にも書いたが、AIを人工知能と訳していることが間違いの元。計算する機械でしかない。
あたかもAIが人間のように人格を有していると、擬人化してしまうから混乱する。

関連記事→「知性の壁」は超えられるか?

芸術は計算可能である。
チェスや囲碁よりは、ルールもパターンも複雑ではあるが、有効な組み合わせは有限だ。人間が作る芸術は、無限にはほど遠く、かなり限定的なのだ。むしろ、AIの方が人間には思いつかない組み合わせを見つけられる。その結果生まれる作品が、人間の美意識を満たせるのなら、それが芸術になる。
おそらく、芸術はAIの得意分野になる。
誰が作ったのかが問題なのではなく、どんな作品なのかが問題なのだ。

諌山 裕

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