公開初日の夜、『風立ちぬ』を観てきた。
宮崎駿監督としては、はじめて実在の人物をモデルとした作品ということで、ファンタジーではない物語……という触れ込みだった映画だ。
事前にいろいろと情報が目と耳に入っていたので、どんな作品なのだろうと、期待感は高かった。
感想を簡潔に言えば……
宮崎監督は、やっぱりファンタジーの人だね。
……ということだった。
実在した人物がモデルではあるものの、かなりの部分は架空のエピソードで、ファンタジー色が強い。
良くも悪くも、宮崎監督らしい作品だ。
ドキュメンタリーとして作られているわけではなく、題材としての実在した人物であり、物語自体はフィクションになっている。
物語中に、主人公の二郎が見る「夢」がたびたび出てくるが、これがファンタジーの部分を強調している。その夢と現実が交錯して、彼の人生が進んでいく。
映画としての完成度からいえば、及第点だろう。
そこそこ面白いが、感動するほど面白いわけでもない。おそらく、私が過大な期待をしているからでもある。宮崎監督の新作には、期待せずにはいられないものがある。それは、過去の作品の「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」で期待を上回る感動をしたからだ。ファンは、それ以上の感動を期待する。
あえて、辛口の評価をすれば、ストーリー的に盛り上がりに欠け、淡々と時間が過ぎていった。
その一因は、大きく分けて3つのパート……(1)ファンタジー的な「夢」のパート、(2)二郎と菜穂子の恋愛のパート、(3)二郎のエンジニアとしてのパート……が、散漫な印象を与えて、焦点がぼやけてしまっている感じがした。
3つのパートが、時系列を追って展開されるのだが、シーンが切り替わるごとに流れが切られてしまう。
観ていて、たびたび思ったことがある。
この物語は、どこに向かっているんだ?
どこに向かってその先が展開されるのか、混乱してしまった。
先が読めないということでは、想定外の展開を期待してしまうのだが、期待したほどの展開にはならず、「あれ?」と肩すかしを食ってしまう。
だんだんと「もやもや」した気分が募ってきてしまった。
その「もやもや」を引きずったまま……終幕。
え? ええっ? これで終わりなのか?
なんだか、消化不良のままエンドロールを見つめていた。
はっきりいえることは、子どもが観て面白い作品ではないということ。その点では、「千と千尋の神隠し」や「崖の上のポニョ」とは異質だ。
大人が観て面白いかというと、これまた世代間で受け止め方は違うだろう。昭和世代、それも昭和30年~40年代より前に生まれた世代には、ノスタルジーを感じる作品だ。実際の舞台となった昭和初期のイメージは、昭和30年~40年代までは名残として残っていたから、共感できる要素がある。特に、田舎ではこの作品の風景は残っていたものだ。
『風立ちぬ』を観て、ノスタルジーを感じるかどうかが、評価の分かれ目なのかもしれない。
以下、ネタバレになる部分もあるので、未見の方は読まないことを勧める(笑)。
冒頭に関東大震災のシーンが出てくる。
このとき、大地が波打ち、地響きが轟くのだが、その恐怖感の演出に……
「あ、これは巨神兵でも出てきそうな雰囲気だな」と思った。
個人的には、このシーンが一番息を呑んだシーンだった。このシーンが秀逸だっただけに、あとのシーンが霞んでしまったというのもある。
震災のときに、二郎と菜穂子は出会い、のちに再会するのだが、その青春というか恋愛の描写は物足りなかった。純愛といってもいい関係だが、美しすぎて悲しすぎる。
ふたりの関係が、その後、どうなったのかの明確な描写はない。
気になったので、帰宅して調べてみると、菜穂子は実在の人物ではなく、物語中の架空の人物だということらしい。ふたりの関係の結末を描かなかったことは、意図的なのだろうが、消化不良になった一因でもある。
作品の主題にもなっている……
「生きねば」
……ということからいえば、菜穂子にも明るい未来が欲しかった。
当時、結核は不治の病だったが、それでも彼女の未来を見たかった。
絵柄的には、いつもの宮崎監督の絵なので、菜穂子はナウシカであり、二郎はアシタカやパズーだ。だから、冒険活劇的なものを期待してしまう。
宮崎監督の「らしい作品」は、元気な女の子が男勝りに活躍して、物語の終盤で大きな困難と戦う……という展開だ。
『風立ちぬ』は、これまでのセオリーの逆をいっている。
物語は、淡々と始まり、淡々と展開し、淡々と終わる。
おそらく、この作品は、何年か経ってから見直すと、また違った味わいのある作品として見られるのではないかと思う。
観て損はないけれども、過大な期待はしない方がいい……と思う。