「気になる最先端テクノロジー10のゆくえ」を読んで(2)の続き。
混同されがちなのだが、「仮想現実」と「拡張現実」は違う。略号では、前者はVR(Virtual Reality)、後者はAR(Augmented Reality)である。
仮想現実は、環境のすべてを仮想として構築する世界。いわゆる電脳空間。
ユーザーの意識だけがリアルで、自身の体さえもアバターとして仮想化される。
映画でいえば「マトリックス」、アニメでいえば「ソードアート・オンライン」の世界がそれに該当する。
拡張現実は、リアルな光景に仮想のキャラやアイテムなどを投影する。それが拡張していることになるのかどうか疑問ではあるのだが、現状のレベルでは投影現実といった方がいい。拡張といえるほどリアルに近づくには、まだまだレベルが低い。
Augmentedは、「増強、増加」の意味だが、「付け加える」というニュアンスの方が適切かな。リアル世界に仮想のオブジェクトを追加する、というわけだ。
ARのもっとも身近な例は「Pokémon GO」だろう。本書でも取り上げられている。
これは成功例であると同時に、ARはこんなものという先入観を与えることにもなっている。スマホの画面の中にはめ込まれた、チープな画像でしかないポケモンたち。背景はカメラから取り込んだ周囲の風景だが、ARの部分は異質で親和性がない。
また、見ているARはユーザー個人だけの視点であり、他者との共有がない。ゲームの仕様であったり技術的なスペックの限界でもあるのだが、目の前に出現するポケモンは、別の人が自分のスマホで見ても、同じところには出現しない。サトシが対峙しているポケモンとの対決を、ハルカが後ろから観戦する……ということはできない。拡張といいつつ、ひとつの端末の中だけで閉塞している世界なのだ。
IKEAが、家具を自分の部屋にARで投影して試し置きを見られるというサービスをしていたが、わりとリアルではあるものの、自由に動かせないし、部屋の光源は反映されない。取って付けたようなARなんだ。
IKEAの例でいえば、部屋に家具を置くとき、窓から差しこむ光によって、見え方は変わる。その光源を読み取り、ARの家具の見え方に反映させるには、環境に合わせたレンダリングをリアルタイムでしなくてはならない。そのためには膨大なリソースを食う。クラウドでそれを行うには、多数のレンダリングマシンが必要になり、コストがかかる。
ARをリアルに近づけようとするほどに、技術的、コスト的ハードルは高くなっていく。
現状のARは、用途が限定されている。
それは技術的な問題でもあるが、デバイスの問題でもある。スマホやタブレットの画面で見る……という制約が、拡張の限界になっている。
メガネ型あるいはヘッドマウントディスプレイ(HMD)のように、視界全体をカバーできるデバイスであれば、小さな画面という制約からは解き放たれる。しかし、Google Grassは失敗したし、HMDを被って街を歩くのは重いしダサイ(^_^)b
もっとスマートなデバイスが必要だ。
メガネ型ということでは、アニメ「電脳コイル」が理想型だ。
本書に電脳コイルが出ていないのは、著者が見ていないからだろうが、あれを見ていればARの未来形がはっきりと予見できたはずだ。
電脳コイルの世界では、街の中にARが展開され、電脳メガネをかけている人たちには、同じAR風景が見える。ARのオブジェクトは、移動させたり改変したりできて、その変更は他者にも共有される。犬のデンスケはARペットだが、自律的に動き、飼い主である主人公と行動をともにし、あたかも実在するかのようにそこに存在する。
VRとARは別物……と解説する人もいるのだが、それは現状の技術レベルが拙いから生じる違いであって、VRとARは突き詰めていくと境界線はなくなる。
それが電脳コイルの世界だ。
本書では、以下のように述べている。
ARは、最大級に壮大なレベルになると、私たちが想像した世界を作り出す機会まで与えてくれる。人類はサバンナから超高層ビルへと移るにつれて、神話や空想──本物ではなくても慰めになったもの──を数多く捨て去ってきた。だが、適切なテクノロジーを用いれば、空にドラゴンを放ち、庭で妖精を踊らせることができる。愛する者たちがいる想像の世界をさまよい、自分の個性をさまざまな角度から探ることができる。さらには、亡くなった人たちをある意味では生き返らせることさえ可能なのだ。
そう、それが電脳コイルの世界なのだよ(^o^)
日本のアニメは、未来を先取りしている。攻殻機動隊なんかもそうだ。
だが、残念なことに、リアルの技術では遅れている。アイデアを現実世界に落とし込む技術を、発明したり開発したりするのが苦手なのだ。
AR編が長くなってしまったので、続きはまたあとで。
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