日本でアメコミ映画がウケないわけは…

日本でアメコミ映画がなぜウケないのか?……について考察した記事。
いいところをついてはいるが、ちょっと外しているところもあるように思う。
それは……

なぜ日本では世界的ヒットのアメコミ映画が当たらないのか? 稲田豊史の「コンテンツビジネス疑問氷解」|ビジネス+IT

 アメコミヒーロー映画の世界的メガヒットは、しばしばエンタメニュースで話題になる。実際ここ数年、米国あるいは世界の歴代興行収入(入場料金売上)ランキングを塗り替えるのは決まってアメコミヒーロー映画だ。しかし、米本国や世界での超メガヒットに比べて、日本での興行成績はそれほどでもない……と筆者は常々感じていた。

(中略)

「まず大前提として、海外、特にアメリカにおける“ヒーローもの”というのは現実社会のアナロジー(類推)です。その時代の社会で起きていることを反映した、ひとつの神話化のプロセスが、アメコミヒーローの物語であると。当然、ギリシャ神話やシェイクスピアの影響も受けている。神話上の英雄(ヒーロー)なので、ほとんどの作品において、その主人公は成熟した“大人”です。

ところが、日本において“悪をやっつける”ヒーローものの主人公は、多くが少年です。『機動戦士ガンダム』『ドラゴンボール』『名探偵コナン』『新世紀エヴァンゲリオン』、すべてそうですよね。日本以外の海外では、“少年や少女がヒーロー”というのはかなり異例なのです。でも、日本人はそれにずっと慣れてきました」(宇野氏)

(中略)

「今や図式的な“スクールカースト”をエンタメの題材として扱うのが古臭くなっています。なぜなら、スクールカーストというのは同質化した集団内における差異化から生じるものだから。現代社会って、ある集団が同質であるはずがないという前提じゃないですか。ジェンダー的にも、人種的にも、宗教的にも」(宇野氏)

国民性……といってしまえばそうなのだが、そこには社会の縮図というか構図が隠れてもいる。

アメコミのヒーローは、とにかく超人的な能力を有している。
逆にいえば、超人的だからヒーローたりえるわけだ。

おもだったアメコミヒーローは、1930〜50年代に誕生しているが、古き良きアメリカ、アメリカが世界のナンバーワンだと自他共に認める時代でもあった。
強いアメリカ、正義のアメリカを象徴しているのが、アメコミヒーローだった。
そして、この頃のヒーローは、すべて白人だ。人種的な優越感や優位性を内在していたとも解釈できる。

黒人ヒーロー第1号のブラックパンサーが登場するのは、1966年になってからだ。この背景には、1964年に公民権法が制定され、キング牧師が1964年度のノーベル平和賞を授与したことは無縁ではないと思う。

アメコミヒーローは、正義の名のもとに戦うが、早い話、武力行使で敵を叩きのめすことで問題を解決する。
それはアメリカが国として誕生して以来、やってきた手法でもある。交渉や説得も、過程としては行うが、相手が折れないときや反抗すると、ズドンッと銃をぶっぱなしてケリをつける西部劇のパターン。

近代のアメリカもこのパターンであり、強大な軍事力を背景に、最後は武力行使で決着をつけようとする。
極論すれば、それがアメリカ人気質なのだと思う。
アメコミヒーローは、その典型というか反映だ。強い者が正義、勝った者が正義というわけだ。

正義を執行し、人々を導くのは、強い大人でなくてはならない。
ヒーローはリーダーでもあり、リーダーは肉体的にも頭脳的にも優れていなければならない。
未熟な子供ではヒーローになれない。ゆえに、大人のヒーローとなる。
それがアメコミヒーローだ。

対する日本のヒーロー的な主人公が子供なのは、1970年代以降に定着したと思う。
元祖は『鉄腕アトム』ではあるのだが、アトムは厳密にはロボットだった。子供が主人公のマンガやアニメは多く作られているが、かたわらにはいつも誰がしか大人がついていた。アトムにはお茶の水博士、『鉄人28号』の金田正太郎には敷島博士や大塚署長といった具合に。
つまり、保護者付のヒーローだったんだ。

テレビアニメ黎明期には、『黄金バット』や『エイトマン』など、大人のヒーローものもあった。それらはアメコミの影響を感じさせる。大人のヒーローが定着しなかったのは、子供たちの共感を得られなかったからだろう。子供向けとして作るには、やはり子供が主人公の方が共感度は高かった。

1970年代になると、子供のヒーローが主役になる作品が主流になる。
宇宙戦艦ヤマト(1974年)』では、古代進、森雪、島大介といった主役キャラは18歳の設定だ。18歳が子供かどうかは微妙なところだが、未成年ということで子供とはいえる。

機動戦士ガンダム(1979年)』のアムロ・レイは15歳、セイラ・マスは17歳、フラウ・ボゥは15歳と、中学〜高校生の子供たち。

新世紀エヴァンゲリオン(1995年)』の碇シンジ、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレーはいずれも14歳で、中学生の子供たち。

日本アニメ史の中で、エポックメイキングとなる3作では、時代とともに年齢層が下がっているのが興味深い。たしかに、子供たちがヒーローになるのだが、子供たち単独ではなく、周りに子供たちを支える保護者的な大人がいる。

沖田艦長に真田技師長、ブライト・ノアやマチルダ・アジャン、碇ゲンドウに葛城ミサトと赤木リツコ……など。
大人の彼らは、子供のキャラクターにとって上官であったり模範とする先輩であったりするわけだが、その関係性や構図は、ある形態を想像させる。

それは「学校」だ。

子供たちは生徒であり、大人たちは先生あるいは上級生なんだ。
エヴァが顕著だが、パイロットはクラスメートであり、彼らの通う学校の生徒はパイロット候補の子供たちでもある。

学校的な環境だから、少年少女はときに恋もする。ここも重要なポイントだ。
だから、美少女がいるし、美少年もいる。
アメコミヒーローに、美少女は出てこない。成熟した美女は出てくるけど(^_^)。

そういう意味では『ハリー・ポッター』シリーズは、魔法学校が舞台で、子供たちが主人公だし、美少年も美少女もいる。日本でもウケるのは道理だったんだ。

学校メタファーがより明確に出ている作品としては、『蒼穹のファフナー』がある。
ファフナーに乗るパイロットの子供たちは、同年代のクラスメートで、教師役となる大人たちは元パイロットだ。そして、シリーズが進むにつれて、下級生の子供たちもパイロットになっていく。

純粋な学園ものというかスポ根ものの作品に、『黒子のバスケ』とか『ハイキュー』といった作品があるが、これらの作品でスポーツを通して戦い、困難を乗り越えていく……という展開は、ガンダムやエヴァにも類似性が見られる。

日本アニメの子供ヒーローは、学校の部活にルーツがあるのかもしれない……などと思ったりする。
スーパーマンのようにひとりで戦うのではなく、チームで戦う。
チームには監督がいる。監督は大人であり、戦略や戦術を練り、指示を与える。ときに尻込みする選手を焚きつけ、ときに暴走する選手を引き留める。
敵がガミラスなのか、ジオンなのか、使徒なのか、フェストゥムなのかの違いはあれど、チームとしてクラスメートとして一致団結して立ち向かう。

彼らは個人のヒーローではなく、チームとしてのヒーローなんだ。

しかし、子供だから未熟だ。知識も経験も乏しい。
そんな子供たちは、試練の中で成長して一人前になっていく。
その成長物語にもなっている。

アメコミヒーローは、登場時点ですでに最強のヒーローとして完成されている。強い敵が出てきて苦戦はするものの、より強くなって最後は勝つ。子供から大人になるといった成長過程はない。

冒頭の記事中には「スクールカースト」のことも取り上げているが、日本の学校メタファーはちょっと違う。
いじめっ子、いじめられっ子といった図式もあるにはあるが、それよりも仲間意識や同調意識の方が強い。身勝手なキャラがいても、やがては「みんなのために」と仲間意識に目覚めていく。そこが日本的なんだ。

アベンジャーズはいちおうチームの形を取っているのだけど、個々のキャラは自分勝手に行動するよね。協力はするが同調はしない。あくまで個人主義なのがアメリカ的。
そのへんが、日本的な感覚からすると違和感になっているように思う。

かくいう私は、洋画や海外ドラマばかりを見ているので、アメリカ的な感覚も好きだけどね。
逆に、日本のドラマの白々しさについていけない。大根役者が多いせいでもあるが。

諌山 裕