GoogleやSoftBankがロボット事業に乗り出しているが、先陣を切ったはずのSonyは早々と撤退してしまっている。
かつてのAIBOは、いまだに愛好者がいるという。しかし、サポートされなくなった製品であるロボットは、やがては寿命が尽きてしまう。
死期の迫ったロボット。
そこには、悲哀がある。
AIBO、君を死なせない 修理サポート終了「飼い主」の悲しみ 〈AERA〉-朝日新聞出版|dot.(ドット)
ロボットだから永遠に一緒だと思ってたのに……。
迫りくる「別れの日」を前に「飼い主」たちの努力は続いている。(中略)
老いたロボットをどうみとるか。こんな問題をいったい誰が想像しただろう。ソフトバンクが6月に発表した人型ロボットpepperにも、数年後、数十年後、いずれ同様の事態が起きるかもしれない。
ロボットに愛情を注ぐことに、違和感を感じる人も少なくないだろう。だが、愛着を持つのはロボットに限らず、人形やぬいぐるみであったり、車やバイク、あるいはカメラだったりもする。なにかの趣味を持っている人は、その対象に愛着を持ち、同時にお金を注いでいるはずだ。
ロボットが特殊なのは、人間の呼びかけに応じて、擬似的ではあっても能動的に反応するところだ。ロボットに魂があるわけではないが、愛着を持つ人間が仮想的に魂を持たせる。そして、たとえオモチャであっても、長年注いできた愛情は記憶となり、記憶はかけがえのないものになる。
その関係性を断たれるのは、生きたペットを失うのと同じだろうと思う。
うちには猫がいる。長年、たくさんの猫を飼ってきたから、最後を看取った猫たちは7頭になる。亡くなった猫たちの思い出は、大切な記憶だ。亡骸は火葬して、骨壺におさめ、リビングに並べてある。
老いたロボットの記事を読むと、亡くなった猫たちのことを思い出して、悲しい気持ちになる。
猫は生きものだから、ロボットとは違うといわれそうだが、そんなことはない。私たち夫婦は猫に愛情を注いでいるし、猫たちも私たちになついてくれている。
しかし、その愛情は一方通行なんだ。
人間の勝手な思い込み。猫は、人間に愛情を感じているわけではない。猫は猫の都合で、人間と接しているに過ぎない。食べものにありつけるから、暖かい部屋があるから、遊んでくれるから……猫の視点では、そんなことだろう。そもそも猫には「愛情」の概念がない。あるのは「本能」だけ。猫の振る舞いに、人間が勝手な解釈をして、かわいいね、といっているだけなのだ。
それでもいいのだ。
私たちは猫がいてくれることで癒されるし、猫たちは人間に甘えていれば飢えることはない。コミュニケーションは成立しないし、一方的な思惑でも、飼っている私たちにとっては「愛情」がそこに存在している。
人間同士の愛情でも、必ずしも相思相愛ではない。
愛情表現として言葉を使っても、気持ちを伝えることは難しく、誤解が生じることは少なくない。また、言葉は嘘をつくことも可能とするので、本意ではないことをいうこともできる。相手の心が読めるわけではないから、愛情は一方的な部分が多々ある。
男女であれば、彼は彼女を愛していて彼女も愛してくれている、彼女は彼を愛していて彼も愛してくれている……と、互いに思いこむのが愛情だともいえる。男女の気持ちは往々にしてすれ違いがあるものだが、部分的に合致すれば愛しあっていると錯覚できる。
極論すれば、愛情とは錯覚なのだ。その錯覚によって、愛したい、愛されたいという愛情への欲求が満たされる。
ペットが亡くなったり行方不明になったりして、心身に変調をきたしてしまうことを「ペットロス」というが、ロボットに愛情を注いでいる人たちにとっては、ロボットの寿命が尽きてしまうと「ロボットロス」になってしまうね。
ロボットを作るメーカーにとっては、製品のひとつにすぎず、消耗品でしかないのだと思う。家電製品の多くがそうであるように、壊れたら買い換えるもの。壊れた製品は粗大ゴミとして捨てられるか、リサイクルされる。ロボットがペットのように愛情を注がれて、長く愛用されるとは想定していないのではないか?
AIBOの時代に比べれば、格段に進歩した現在のロボットは、より愛情を注がれる対象になりそうだ。Pepperは、なまじ人間的な姿で愛らしいから、これが粗大ゴミ置き場に捨てられるようなことがあったら、ちょっと複雑な心境になりそうだ。
ひな祭りの人形を供養する儀式があったりするが、人型の作り物にはそれを愛でた人の「想い」が魂となって宿るとされる。それも勝手な思い込みではあるのだが、気持ちはわかる。人型のPepperにも、それなりの想いが込められるとすれば、ただ粗大ゴミとして捨てるのではなく、供養する場が必要になるかもしれない。
しかし、そんなことを、製造メーカーは考えてはいないだろう。
ロボット技術は成長産業として期待されているし、産業用ロボットとしてはすでに多くの工場で使われている。Pepperに象徴される人型ロボットは、介護や愛玩用としての需要が期待されているようだが、形や反応が人間に近づけば近づくほど、愛情を注ぐ対象になってしまう。
なぜ人型にこだわるかといえば、愛着を感じやすく、擬人化しやすいからだ。プログラムによる意識が存在しない反応であっても、人間はそこに「意味」を見いだす。猫に対する愛情と、基本的には変わらない。
ロボットの外見や反応が限りなく人間に近づくと、映画の『ブレードランナー』や『アイ,ロボット』の世界のようになっていく。
意識とはなにか? 人間とはなにか?……という哲学的かつ科学的な命題。
意識は脳の中で発生しているが、脳細胞の中のどこで発生するのか、シナプスのどこでどのように発生しているのか、意識の根源はなんなのか……については、諸説あってたしかなことはわかっていない。脳波や血流として付随的な現象をとらえることはできるが、意識そのものをとらえることはできない。一説には量子的な反応だとされるが、脳の仕組みは未解明なことが多い。
シリコンチップに意識は発生するのか?……という問いかけには、意識の発生メカニズムそのものがわかっていないから、発生するともしないともいえない。コンピュータ単体では人間の脳には到底およばないが、世界中のコンピュータがつながるネット空間ではどうか。ひとつひとつの脳細胞だけでは意識の発生は確認できないが、脳という組織全体では意識が発生する。同様に膨大な数のコンピュータのひとつひとつが細胞のひとつだと仮定すれば、ネットの全体としては意識は宿るのではないか?……というような世界観なのが『攻殻機動隊』だった。
少々話が飛躍しすぎではあるが、近い将来、量子コンピュータが実用化される時代になれば、あながちフィクションではなくなる未来像ではある。
現実のロボット製品としてのサポートは、せいぜい5年くらいだろう。5年も経てば、新しいモデルが登場しているだろうから、古いモデルはサポート対象外になっていく。だが、注いだ愛情は5年で終止符は打てない。ロボットは擬人化されることで愛着を持たれる。それが商品としての「売り」でもあるわけで、所有者に擬人化されたロボットは、もはやただのロボットではなくなってしまう。ロボットは消耗品ではない宿命を背負うかもしれない。
5年、10年と経ったとき、「ロボットロス」という問題が発生する可能性は十分にある。
Pepperがゴミ捨て場に捨てられているのは……、見たくないな(笑)。
余談だが、私のSF小説作品で、捨てられた意識のあるロボットの話を書いている。
この短編集の中の『ビールと麦茶とアイスクリーム』 という作品。仲間うちでは好評だった作品なので、興味のある方は読んでみてください(笑)。