人の意識の中での「記憶」は、自己と世界の「認識」とその「理解」=「自我」から生まれる。
コンピュータでの記憶は単なるデータの記録だが、意識の記憶には過去の記録だけではない「自我」が不可欠だ。
さて、天声人語でいつもと違った体裁の記事があった。
asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-天声人語
てがかりは、とおいかすかなきおくにしかない。いつかどこかで、ふたつのものがあわさってワタシというものがはじまったようなのだ。まだみてはいないが、このそとには、せかいというひろいところがあるらしい。そこには、オトコといういきものとオンナといういきものがいて、それがであってあたらしいいのちができる、ときいたきおくがある。
リンク先の全文はいずれ読めなくなってしまうだろうが、このコラムのオチは、
ワタシをあのくらいところではぐくんでくれたオンナのひとが、ワタシのハハオヤのハハオヤだとは、まだしらなかった。
となっている。
どうやら、代理母出産で子どもの祖母にあたる女性が代理母となった記事を、その子どもの視点から書いたフィクションらしい。
手法としては面白いが、実のところ、胎児がこういう思考や記憶を持っていることはありえない。
単なる擬人化……ということでは、動物を擬人化するディズニーと同じことだが、そもそも「意識」とはなんなのか?……ということを考えれば、胎児に意識が宿るのは、どの段階なのかは、まったくわかっていない。
コラムの引用した部分には、「とおいかすかなきおく」が、この胎児の人格を形成しているわけだが、その記憶はどこから由来しているのか?
精子と卵子に意識はあるのか?
「せかい」を知らず、「じぶん」を知らない胎児には、そもそも「自我」は芽生えていない。
自我とは、自分と世界の境界線を認識して、自分と周りの世界を識別する。そこに一人称が成立するわけだ。
胎児には一人称は、まだ成立していない。
意識はあるだろう。脳が活動して、外界からの刺激に反応するからだ。だが、そこに自我はない。
自我がないということは、記憶もないということだ。
つまり胎児は、「とおいかすかなきおく」を持ち得ない。
寓話的に書いていて面白いのだが、つきつめていくと、この胎児がこういう体験を認識していることはあり得ない。
つまり、サイエンス・フィクションとしては、成立しない物語なのだ。