Real, virtual, and online.

 この記事は、当ブログでの「リアルとバーチャルの狭間」と「ネットと子どもの関係」を収束させて展開する。

 続きを書こうと思いつつ、時間がなくて途中で止まっていた。
 その間に、関連する記事をいろいろと読むことになった。

 新聞やテレビの報道が、リアルなのか?……と考えたとき、ある事件、ある場面の一部はリアルを伝えているが、それはリアルの断片に過ぎず、情報は限られている。つまり、ノイズに満ちている。
 前にも書いたが、映画がそうであるように、その一場面はカメラが映したリアルでも、全体としては断片をつなぎ合わせて、フィクションを構築する。言い換えれば、断片のリアルをいくら寄せ集めても、リアルにはならないともいえる。情報の欠落(ノイズ)を埋めることは不可能に近いからだ。
 ニュースとして報じられることは、リアルであると認識しているが、じつはそれは部分であって、全体としてはバーチャルになってしまう。
 「あるある~」のねつ造問題は、その典型だ。ある部分は事実だが、あえて情報を欠落させたり、誇張したり、シーンを組み替えることで、意図的な結論を描き出した。断片のリアルで真実とは言えないリアルを作り上げた。
 誰もがそれを鵜呑みにして、納豆を買いに走ったのは、それがリアルに感じられたからだ。テレビという権威もそのリアリティに荷担した。納豆が体にいいことは認知されたことだったので、そこにダイエット効果があると誇張されたことで、小さなリアルが大きなバーチャルへと変貌した。ねつ造がばれるまでは、そのバーチャルを皆がリアルだと信じたのだ。

 報道は所詮、部分のリアルでしかない。真相を追求する……というのが、報道の使命だとされているが、どんなに言葉を並べて、たくさんの映像を撮っても、リアルの断片の数が増えるだけだ。
 記者やキャスターの「人の意識」のフィルターが存在する限り、情報は取捨選択されてノイズだらけになる。
 ノイズのあるリアルの情報は、真相から遊離して、バーチャルに変容する。
 その一端が、以下の記事。
livedoor ニュース – 【赤木智弘の眼光紙背】第5回:新聞業界の責任

 中高年のリストラを盛んに報じる一方で、若者の就業問題からは目を背け、若い非正規労働層を拡大させた。
 統計上、凶悪犯罪は増えていないにもかかわらず、少年の凶悪犯罪を過剰に問題視し、「心の闇」などとレッテルを張って、「若い世代には人間的欠陥がある」かのような、若者を害悪視して当然の社会風潮を産み出した。
 etc.etc. 個人的にマスメディアを恨む根拠は尽きないし、客観的にも、マスメディアが現在の若者たちの不遇を作り出した要因の1つであることは疑いようがない、と私は考える。

 これに限らずだが、子どもたちとネットに関わる問題でも、ある特異な事件が起きると、あたかもそれが大勢であるかのように扱うことは日常茶飯事だ。一昔前は、子どもとゲームが問題になり、もっと昔は、子どもと漫画が問題になった。
 報道はある一面的な事実は伝えているが、切り取られたリアルは注目を浴びることで、それがすべてであるかのように虚構のリアル……バーチャルを形成する。
 「世論」というのは、人々の意識が生み出すバーチャルの結果だともいえる。
 ニュースソースが断片的な情報を流し、ノイズから人々が想像してバーチャルを組み上げていく。世論調査もあるが、そもそも選択肢が限られているし、選択肢にないものは情報として欠落するから、意図的に操作が可能だ。
 私たちは、気がつかないうちに他人(あるいは大衆)の意図に振り回されているし、リアルとバーチャルを区別できなくなっている。
 つまるところ、リアルというのは「信じること」なのかもしれない。
 新聞を信じる、テレビを信じる、親の言うことを信じる、先生の言うことを信じる、科学を信じる、宗教を信じる……etc。

 ……と、こんな記事があった。
「たいしたことない自分」だから、本を書いた–梅田望夫氏講演:後編:コラム – CNET Japan

 今は無限の情報と付き合っていかないといけない時代です。それが昔との一番の違いでしょう。

 ネットとまじめに付き合うと、自分の有限性を思い知らされるばかりです。全部の情報は読めないですし。

 この本で言いたかったのは、直感を信じるということ。年配の人は、ワーッと来ている情報が玉石混交だから、誰かがまとめたものを信じた。そこで新聞や雑誌の役割が生まれた。クオリティの高いメディアを見ていれば、無限に対して目をつぶってもいいという生き方だった。

 逃げ切り世代はそれでいいんです。僕より上の年齢――僕は1960年生まれの47歳ですが、仕事人生が残り15年以内なら何とかそれでもやっていける。でも、もっと若い人は無限の情報と付き合っていかないといけない。

 無限に対して目をつぶっている人なんか若い人の中にはいません。米国の研究で、選択肢がいっぱいあると結局ポピュラーなものを選ぶ人が全体の7割だという結果がありました。ここに生きていく上で重要なポイントがある。

 思考停止になって誰かに頼ろうとすることは、スティーブ・ジョブズの言葉を借りれば「他人の人生を生きる」ということ。ジョブズは格好いいこと言うよね。

 「直感を信じる」とは、なにか?
 そもそも直感とはなにか?
 辞書には、「推理・考察などによらず、感覚的に物事を瞬時に感じとること」とある。
 この辞書の意味は、矛盾でもある。推理・考察は、人の五感と経験と知識から導き出されるものだし、それらは感覚によって得られる。「感じとる」というのも、推理や考察が背景となって状況を把握する。棒倒しで方向を決めるような、ランダムな判断ではないのだ。
 ようするに、直感とは入力される情報に基づいたバーチャルな思考である。それは「想像力」ともいう。

 「手で触れられるものがリアル」とは、アニメの「電脳コイル」に出てきたセリフだ。
 「電脳コイル」はリアルとバーチャルに関する、面白いドラマになっているし、量子コンピュータが実現した未来のネット社会を舞台としている。なかなか秀逸な作品で、示唆に富んだエピソードも多い。
 この作品の背景は、かつてのサイバーパンクが色濃く影響しているが、より身近に感じられるように現代的な要素が加えられている。
 個人的には、電脳犬のデンスケが可愛くて可愛くて……(^_^)
 電脳コイルの街では、空間的にも時間的にも、リアルとバーチャルが渾然一体となっている。
 それをメガネという、たった一つのデバイスが可能にしている。現在は、テレビ、パソコン、ゲーム機、携帯電話、iPOD等々にデバイスが分かれているために、それらを目的に合わせて使い分けなくてはいけない。
 デバイスが分かれていることで、現在のバーチャルはリアルには到底及ばない稚拙なバーチャルになっているともいえる。
 逆に、ハードとソフトが稚拙であるがゆえに、リアルの断片からバーチャルが生まれる余地がある。足りない部分を、人間の脳が想像で補っているのだ。

 人と人との繋がりも、リアルな部分とバーチャルが部分がある。
 「触れられるものがリアル」という定義からいくと、手の届く範囲は半径1メートルくらいだから、それ以上先のものはリアルではなくなる。だが、そうではないことを、誰もが認識している。10メートル先にも、100キロ先にも、30万キロ先にも、リアルな世界がある……と、認識している。
 しかし、それは観察者である本人には、手で触れて確認することはできない。リアルであると「信じる」しかないのだ。
 ……と、こんな記事。
第6回 情報環境研究のキーワード「繋がりの社会性」 | WIRED VISION

そして、Twitterとニコニコ動画というアーキテクチャの特性もまた、以上に述べたことの延長線上で理解することができます。「擬似同期性」を特徴とする両アーキテクチャには、実際には非同期的に行われている各ユーザーの発話行為(コメント)を、同期的なコミュニケーションとして体験させる(錯覚させる)という設計が施されています。その設計の主眼は、コミュニケーションの《内容》レベルではなく、コミュニケーションが成立している――同じコミュニケーションの「現在」あるいは「場」を共有している――という《事実》を強固なものにすることに置かれていることは明らかです。

 もう1つ。
第21回【同期性考察編(2)】ニコニコ動画の「時報」はウザイ。しかし、強力である。 | WIRED VISION

ニコニコ動画のユーザーたちが、「時報」の直後に「時報うざい」と思わず書き込んでしまう心理は、おそらくこの「地震」と同じものなのではないかと思います。しかし、ここで重要なのは、ニコニコ動画上の「同期的コミュニケーション」というのは、過去にも詳説したとおり、あくまで「擬似同期」的なものだということです。ニコニコ動画上では、同じ動画を視聴するユーザー同士があたかも同期的にコミュニケーションを交わすような感覚を得られるけれども、実際には、その動画を視聴しコメントを投稿している時間は「非同期的」、つまりばらばらです。例えばAというユーザーが深夜2時に「ニコ割」に遭遇して、「時報うざい」と書き込んだとしましょう。しかし、その「時報うざい」というコメントを深夜4時半に見たユーザーBからすれば、ユーザーAの「時報うざい」という感覚をリアルタイムなものとして共有することはできません(*1)。むしろ、後者のユーザーBから見れば、前者のユーザーAが投稿する「時報うざい」というコメント自体が、共感不可能で「うざい」ものに感じられてしまう。つまり、「ニコ割」という強制割込放送の存在は、ニコニコ動画上の「擬似同期感」にヒビを入れてしまうということです。

 さらに、もう1つ。
「擬似同期」型メディアの登場・人文系が語るネット(中)-インターネット-最新ニュース:IT-PLUS

 しかし、その特徴は同時に、ネットが、情報の発信者と受信者の時間を構造的に分離してしまうため、(常識的に思われているものとは異なり)「身体的な共感」を生み出しにくいメディアであることも意味している。テレビやラジオには「生中継」や「生放送」があるが、ネットのライブ放送は技術的には「録画時刻と放送時刻の差が極端に小さくなった録画放送」である。たとえネットのなかでいくら大規模な事件が起きたとしても、ネットのユーザーはつねに多様で、特定のコンテンツだけを「一方的」に「見させられる」ことがないため、かつてのテレビの視聴者のように、「みんながいまこれを見ている」という共通体験の感覚をもつことは難しい。

 引用が長くなってしまった。
 これらの記事で問題にしているのは「同期性」だ。
 ここで疑問に思うのは、同期性の許容範囲だ。
 ある事象が起こった瞬間から、どのくらいの時間までの間に、複数の人々が認識することで「同期している」といえるのか?
 数秒、数分、数時間、数日、数ヶ月、数年……、どのくらいのタイムスパンまでを同期性として許容するかだ。
 これには、情報伝達手段による社会のありようが影響している。
 かつて、電話もなかった大昔の時代であれば、口伝えや手紙で情報を伝えた。交通機関も発達していなかった時代には、遠くに伝えるのに、数日~数ヶ月、ときには数年もかかった。同期性のタイムスパンは桁違いに長かった。
 機械文明が起こって、電信電話が発明されると、同期性のタイムスパンは短くなった。それでも極端に短くなったのは、やはりネット時代になってからだろう。
 ネット時代といっても、初期の頃はパソコンを使うのが主流だったから、リアルタイムではなかった。メールは即時に相手に届くが、相手がそれを見るのはパソコンに電源を入れてからだ。同期性に要する客観的な時間は短くなったものの、デバイスが不自由だったために、同期性を感じる主観的な時間の猶予があった。昨日届いたメールでも、見る人が開いたときが、相手との同期性だったのだ。
 携帯電話が普及すると、デバイスを持ち歩けるようになり、いつでも相手と連絡を取ることが可能になった。同期性の時間は、ますます短くなった。

 そう考えていくと、
コミュニケーションが成立しているかのように錯覚させる疑似同期性
同期的コミュニケーションにヒビを入れる時報
身体的な共感を持ちにくい疑似同期性のネットメディア
 ……という、これらの共通項である同期性は、はたして同期性が問題なのだろうか?と思ってしまう。
 記事を読んでいて、なにかが引っかかって、なにかが違うように感じた。
 どうにも、しっくりと馴染まなかったのだ。
 いろいろと考えてみて、漠然とイメージが浮かんできた。
 そもそも同期性は、認識する個人の感覚である。私から見ている限り、実際の時系列に関係なく、その情報に接したときがリアルな同期だ。
 映画を例にとれば、撮影された順番は前後していても、最終的に物語として編集されると、そこにリアルに感じられる時系列が生まれ、映画の中のキャラクターとともにバーチャルな時間を過ごす。同じ映画を、別の日に見た人と、その映画について語り合うとき、実際の同期性はなくても、同じ体験をしたということで同期性を共有できる。
 つまり、共有しているのはリアルな同期性ではなく、物語というバーチャルな世界なのだ。
 ネットの世界もこれに通じる気がする。
 コミュニケーションとしての書き込みや動画サイトの疑似同期性、あるいはネットメディアの中継というのも、パソコンや携帯のデバイスを通したバーチャルなドラマだ。相手がどこの誰かもわからず、リアルタイムであるかもわからない。それでも自分から能動的にバーチャルな世界に関われることで、リアル感を感じる。
 個人個人は勝手に行動していても、私から見た他者の存在は、バーチャルなキャラクターだ。それは映画の登場人物と同じ。違いはまったくのフィクションではなく、部分的にリアルさを持ったキャラクターだということ。
 そこに地震が起こったり時報が介入したりすると、バーチャルな世界がリアルによって水を差されることになる。「ウザイ」と感じるのは、自己完結していたバーチャルな世界を壊されてしまうからではないだろうか? ゲームに没頭している最中に、いきなり電源が抜けてリセットされてしまうようなものだ。

 現在のネットでのコミュニケーションの方法は、主にテキストによる間接的な意思表示だ。電話やムービーカメラを使った方法もあるが、こちらにはあまりバーチャルな世界というイメージはない。リアルすぎるからだろう。
 テキストによるコミュニケーションは、文書を「書く」という過程で、情報量が極端に制限され、想像する余地を残す。受け手の解釈次第で、バーチャルが生まれやすいのだ。
 電車の中で、多くの人が携帯を手に持ち、画面に見入っていたりボタンを打っている姿は珍しくなくなったが、不思議な光景でもある。
 見ているのは画面だが、その人の意識は、メールを読んでイメージするバーチャルな世界にある。リアルな周囲には目もくれず、バーチャルに没頭しているのだ。iPODで音楽に聴き入っていることも、同様にリアルな周囲の音を遮断して、音楽が作り出すバーチャルに没頭している。
 人は、バーチャルに没頭したいのだ。それが心地いいから。
 それが中断されるリアルの介入を、不快に思うのだろう。
 だとすると、時報による企業の広告戦略は、バーチャルに没頭したい人たちの反感を買うのは当然だろう。バーチャルな世界にリアルな広告を挿入したいのなら、広告自体もバーチャルな世界に順応する必要があるように思う。
 ……と、長くなってしまったが、今日はこのへんで。

諌山 裕

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