富野由悠季監督が描いてきたもの

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ガンダムを作った富野監督のインタビュー記事。
共感する部分、感心することも多いのだが……
異を唱えたいところもある。

「若い世代に“扇動工作”をしなければ、未来はつくれない」――富野由悠季監督が信じる「アニメの機能」 – Yahoo!ニュース

富野は常に憤っている。自分の能力、政治の実態、世界のあり方。さまざまな事象の至らなさが歯がゆく、創作でそれを乗り越える道筋を探す。作品の根底にあるのは「人間はいかに生きるべきか」という問いかけだろう。

(中略)

「新海誠監督というのは、“理科系”のセンスがある人で、雲をあれだけ注視することができるという感覚はとても独自なものです。でも若い男女がいるのに、相手にちゃんと触れようとしないし、なかなか好きとも言わない。そういう内容が『ああ、僕の、私の、なんとなく釈然としない、パッとしない気持ちを代弁してくれているの』という共感性でもってヒットしたのは分かる。分かるんだけれど、そうするとあのラストというのは、そういう鬱屈が生んだ鬱憤ばらしなんだよね」

(中略)

――富野監督は『G-レコ』について再三「子どもに見てほしい」と語ってきました。

「僕の場合、子どもといっても孫とかひ孫とか、あるいは玄孫(やしゃご)ぐらいのイメージで言っています。そういう世代に向けて『我々には解決できない問題がこれだけあります。それらの問題で地球は人類によって食いつぶされたり、環境が最悪になってしまったりするかもしれません』『そういう問題を見ないふりをして、月旅行とか火星旅行みたいなアイデアに税金を使うのは正しいことですか?』というような大事な疑問を忍ばせています。そこの問題を大人は解決できなかったけれど、あと1000年とか2000年の間、大切に地球を使っていくために考えることはもっとあるんじゃないですか? と」

富野監督は謙虚なのかもしれないが、けっこう自分を卑下した物言いをする。
「僕みたいなの」とか「僕程度の能力ではやはり無理」と。
いやいや、富野監督を超えられる監督は、そうそう出てこないよ。
あなたが自分をそんなに過小評価したら、若い世代の監督はもっとダメってことになってしまう(^_^)b
自分を戒めるための卑下なのかもしれないが、富野監督は日本アニメ史上で5本の指に入る監督であることは間違いない。

富野監督の蘊蓄はこれまでも読んだり見たりしてきたが、わりと挑発的だ。
若手やファンに檄を飛ばしているのだろう。
新しい技術や最近の作品について、けっこう辛辣なことをいったりもしていて、保守的な頑固じじいの一面もある。

「天気の子」についてのコメントは、なかなか手厳しい。
これについては私も同感なのだが(^_^)
【レビュー】「天気の子」

富野監督は、ガンダムをはじめとした作品に、子供たちへの未来に対する警鐘を込めているという。
意図はわかるが、子供たちが富野作品からそのメッセージを受け取って、考えるきっかけになっているか?……というと疑問符がつく。

最初のガンダムのときは田舎の実家に住んでいたのだが、地元の放送局で放送されず、リアルタイムでは見られなかった。
そこで放送を見られる県境に住む知人に頼んで、VHSのビデオで録画してもらって郵送してもらうという方法で見ていた。イデオン、ダンバイン、ザブングルもこの方法で見た。
ガンダムは放送終了後にブームとなり、地元の放送局でも放送された。

その後のガンダムシリーズはほとんど見ているし、富野作品はほぼ全部見ている。
好きな作品は多いし、富野ファンではある。
それでも、というか、だからこそいうのだが……

ガンダムにしろ「Gのレコンギスタ」にしろ、建設的な未来が描かれているとは思えない。
ロボットものという枠組みがあるにしても、物語で描かれているのは「戦争」であり「殺し合い」だからだ。
しかも、少年少女たちが戦場に駆り出される戦争だ。
ガンダムが衝撃的で夢中になったのは、アニメなのに戦争のリアル感があったためだ。
主要なキャラクターが戦死するたびに、なんともいえない喪失感や焦燥を感じた。
「死」を感じられるアニメだったんだ。

作品の舞台と時代は変われど、彼らは戦いに明け暮れ、戦争に終わりは見えない。
人間は戦争をする生きものだ。……と、そういうメッセージのように受け取れる。
環境問題や社会の問題を含んでいたとしても、戦争の中で、殺し合いの中で、そうした問題意識は忘却される。
世界を変えるためには、武器を持って戦うしかない。
ガンダムの単刀直入なメッセージは、これではないか?
一方の側の理想を実現するためには、対立する側を殺して排除するしかない。それはシャアのロジックでもあった。

「ニュータイプ」という設定が出てきたときに感じたのは、居心地の悪い不快感だった。
安っぽい設定にも思えた。
私の解釈としては、血なまぐさい戦争が続いているから、殺し合いの中に合理的な理由づけ、あるいは回避策としてニュータイプを出したのではないか?……ということ。

不毛な戦いの中から、人類の革新が芽生える。そう理由付けることで、殺し合いの贖罪にしたいのではないか。
そんなバカな話はないわけで、文明が起こって以降の人類史の中で、どこかで戦争が行われてきた。多くの人が戦場に駆り出され、多くの人が死んだ。戦場の極限状態で、気が狂う人はいても、人類の革新に目覚める人などいない。戦争とはそういうものだろう。

ニュータイプという設定は、戦争をオブラートに包み、幻想を見させた。
リアルな戦争から逃避して、ファンタジーにしてしまった。
そういう意味では、富野監督はリアルに徹しきれなかったのだと思う。

願わくば、富野監督には、ロボットものではなく、戦争物でもない、希望がもてる建設的な未来の物語を作ってみて欲しい。

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