「表現の自由」は無制限の自由なのか?

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「表現の自由」は無制限の自由なのか?

日経ビジネス電子版(会員制サイト)の小田嶋氏のコラムは、いつも読んでいるのだが、今週のコラムにはちょっと首をかしげた。
それは「表現の自由」の解釈についてだ。

アートという「避難所」が消えた世界は (2ページ目):日経ビジネス電子版

言うまでもないことだが、「表現の自由」なる概念は、作品の出来不出来や善悪快不快を基準に与えられる権益ではない。その一つ手前の、「あらゆる表現」に対して、保障されている制限なしの「自由」のことだ。

(中略)

表現の自由は、不快な表現や、倫理的に問題のある作品や、面倒臭い議論を巻き起こさずにおかない展示についてこそ、なお全面的に認められなければならない。

小田嶋氏は、「表現の自由」はすべてにおいて最高優位だとしているようだ。
そうだろうか?
氏の論法でいけば、差別表現や侮辱表現すらも「表現の自由」で守られることになる。
端的なのが、ヘイトスピーチといわれるものも「表現の自由」ということになってしまうのではないか?

氏はアートについてあれこれと講釈を述べているが、「表現の自由」はアートだけの問題ではなく、著作や発言(肉声だけでなくツイートなど)も含まれる。

ヘイトスピーチは、「不快な表現」「倫理的に問題のある」「面倒臭い議論を巻き起こす」内容の発言や表現である。氏はヘイトスピーチも「全面的に認められなければならない」というのだろうか?

しかし、氏の過去のコラムでは、ヘイトスピーチや旭日旗問題を批判し、容認していない。彼らの主張には賛同しないものの、彼らが主張すること自体は「表現の自由」ではある。嫌いなことに対して嫌いという自由はある。

ここで問題点を挙げるなら、「表現の自由」とは無制限の自由なのか?……ということ。

無制限の自由とは、他のあらゆる権利や義務などよりも優位にある……つまり、最高優位にあると定義するかどうか。

ある「表現の自由」によって発言されたこと、書かれたこと、表現されたことによって、人権、プライバシー侵害、名誉毀損、差別、倫理、精神的苦痛などで、他の誰かが不利益を被った場合。
不利益を被った人の権利よりも、「表現の自由」の方が優位なのかどうか。

「表現の自由」が無制限に自由であるならば、他者の権利を侵害してもよいことにならないか?

小田嶋氏コラムを読んでいて、そこのところが引っかかってしまった。

今一度、「表現の自由」の定義を確認しておくと……

▼ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

好きなときに,好きな場所で,好きな方法で,好きなことが言えるという,思想,主張,事実などを対外的に表明する権利。政府が発表内容を事前にチェックして意にそわない場合に公表を止める,検閲からの自由である(→事前抑制)。今日においては,情報の収集・伝達・頒布という,コミュニケーションの全過程の自由がすべて保障されることが求められる。その具体的なものの一つが,情報の収集や伝達の自由が政府によって妨げられないという伝統的な自由権的側面と,公的機関が保有する情報の開示を求めることで効果的に政治選択に参画できるという請求権的側面をもつとされる,知る権利である。表現の自由は,人々がすばらしい芸術にふれたり,知識を蓄えたりすることでの人格形成,自己実現をするために不可欠であるとともに,議論を通じコミュニティにおける社会選択を実現するという意味で,自由で民主的な政治体制にあっては最も重要な権利の一つである。それゆえに,もし経済的自由が不当に制約されても,表現の自由が有効に機能していれば,その不当な規制を改廃することが可能であるという「二重の基準論」から,社会のなかで特別な保護に値する権利と理解され,優越的な地位があるとされている。

▼百科事典マイペディアの解説

意見・思想・感情などを外部に発表する場合,国家権力によってその内容につき制限または禁止されないこと。日本の現行憲法は言論・出版・集会の自由のほか,集団行進・示威運動など一切の表現の自由を保障する(憲法21条)。

▼日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

表現の自由

音声や文字、あるいは画像などにより、個人が内心にもっている思想、意見、主張、感情などの精神作用を、自己の外部に向かって表明する自由。「言論の自由」freedom of speechとほぼ同義に用いられることが多いが、単に個人的になされる肉声や手書きによる表現の自由だけでなく、より効果的な表現手段を用いて行使される、報道の自由、出版の自由、放送の自由、映画の自由、さらに集団示威行動の自由などを含んでいる。表現の自由はまた、表現の伝達行為そのものの自由だけでなく、表現活動を行うための基礎となる素材を収集する取材の自由や、さらに表現活動が当然に予想している表現の受け手の側の知る権利(読む自由、聴く自由、視(み)る自由)をも保障していると考えられる。その意味で、表現の自由は、社会における意見や情報の自由な流通過程の総体を保障しているものである、ということができる。

(中略)

表現の自由の限界

表現の自由は、このように、個人にとっても社会全体にとっても重要な機能を営むことによって、自由の体系を維持していくためのもっとも基本的な条件となっており、その意味で、「ほとんどすべての他の形式の自由の母体である」といわれている。いうまでもなく、表現の自由にも限界がある。たとえば、表現行為によって他人の名誉やプライバシーを侵害することは許されず、違法な侵害に対しては刑事罰や損害賠償義務が課せられる。また、
(1)わいせつ物の頒布・販売などの禁止のように、社会の道徳秩序の維持を目的とした規制
(2)犯罪の扇動行為の禁止のように、公共的秩序の維持を目的とした規制
(3)公務員に対する国家秘密の漏示の禁止のように、国家の安全保持のための規制
などが現代の民主主義国家においても、表現の自由の制約として存在している。

各書によって、解釈は微妙に違うのが面白い。
「優越的な地位」があると解釈するものから、「表現の自由にも限界がある」とするものもある。
共通しているのは、憲法で保障された権利だということと、検閲などの国家権力の介入を否定していること。

微妙とはいえ解釈に違いがあるのは、「表現の自由」の定義は定まっていないともいえる。
よって、小田嶋氏の意見は、ひとつの解釈であり、絶対ではないということだ。

難しい問題であることは間違いない。

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