「筋違い」が筋違いに思える

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「筋違い」が筋違いに思える

コロナ禍でのオリンピック開催の是非が、誰のため、何のためのオリンピックなのかを問い直されている。
開催ありきで矛盾だらけの感染対策をする政府や自治体のやり方が、国民や医療関係者に我慢と負担を強いていることが、オリンピックに対する不信感を助長しているともいえる。

尾木ママ アスリート個人へのオリンピック辞退要求は「筋違い」― スポニチ Sponichi Annex 芸能

“尾木ママ”こと教育評論家の尾木直樹氏(74)が25日、自身のブログを更新し、競泳の東京五輪代表に内定した池江璃花子(20=ルネサンス)が新型コロナウイルス感染拡大の収束が見えない状況の中、自身のSNSに五輪出場辞退や五輪開催反対に賛同を求める声が寄せられていることを明かしたことについて「個人へのオリンピック辞退要求がエスカレートしているのは筋違いではないでしょうか?アスリート個人に問いかけるのは」とつづった。

尾木氏は「あまりにも残酷です アスリートが自国開催のオリパラに全力を尽くすことは自身が生涯をかけた戦いであると同時に私たちにも無限の力と感動を与え免疫力さえアップしてくれますーー 開催如何はあげて日本政府・主催の東京都の問題ではないでしょうか?」とし、「中止要請するなら組織に対して行うべきです個人への要請は悲しすぎますーー」と続けた。

東京五輪開催是非について口を閉ざすアスリートに疑問」で書いたが、アスリートが自らの考えを自由に発言できない状況が問題なのではないだろうか?

選手は一生に一度のこと、人生最大の大会、ここで結果を出すことで己の価値を高めたい、なにがなんでも開催して欲しい……等々、様々な思いがあると思う。
あるいは、このコロナ禍での開催に疑問や不安を抱いている人もいるかもしれない。
その思いをもっと発信すればいい。
沈黙していることが、政府や大会組織委員会の方針を、暗黙のうちに肯定していると受け取られてしまっているのではないか。

アスリートが自国開催のオリパラに全力を尽くすことは自身が生涯をかけた戦いであると同時に私たちにも無限の力と感動を与え免疫力さえアップしてくれます」というのは、本質から外れた筋違いだと思う。

まず、「免疫力アップ」などというのは、科学的根拠が乏しい精神論だ。そんなことで感染症が防げるのなら苦労はしない。アホなことをいわないでくれ。

無限の力と感動を与えてくれる」というのも、美化しすぎだし、だれもがスポーツ好きというわけではない。感動は、小説でも、映画でも、音楽でも可能であり、スポーツだけが特別なわけでもない。スポーツの感動は、あまたある感動を呼び起こすトリガーのひとつというだけ。

オリパラに全力を尽くす」というが、選手は競技の中で全力を尽くすことだけ考えていればいいのだろうか?
それでは、まるで競馬の競走馬のような扱いに思える。
競走馬はスタートゲートの枠に入れられたら、あとは全力で走るだけ。そこに馬の意思は関係ない。腹を蹴られ、鞭を入れられ、ひたすら全力で走る。
オリンピックの選手も、ただ走れ(泳げ)ばいいというのか?
観戦する側からしたら競馬と同じではある。気にするのは着順だ。

馬は物言えないから、なにがしかの発言をすることはできない。枠に入るのを嫌がっていても、無理矢理押しこまれるだけ。
人間である選手は、馬と同じでいいのか?
馬は枠に入ることを自分の意思で拒絶することはできないが、人間は意思表示して拒絶することができる。選択することができるんだ。

「勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である」といったのはクーベルタンだが、今では風化した理念のように思う。
現在のオリンピックは、巨額のマネーが動く巨大商業イベントであり、各国はメダルをいくつ取れるかの皮算用をし、多くのメダルを取ることが目標になっている。それがエスカレートして、ドーピングをする選手が後を絶たない。
メダリストは、名声と報奨金を手に入れ、その後の人生の安泰が担保される可能性が高くなる。

スポーツが見る人に勇気や感動を与える場合もあるが、表向きの美談だけでなく、背景にはビジネスが結びついているのも事実。
選手は国やスポンサー企業からの資金援助で活動している。彼らは背後にいる企業の広告塔の役割も担っていて、純粋なスポーツ精神だけで競技を行っているわけでもない。
中学・高校の部活とは、根本的に違う。

池江選手が気の毒なのは、東京五輪の広告塔というかアイコンの役割を背負わされていることだろう。その役割を断れなかった事情もあるのだろうが、結果的には請け負ってしまった。
彼女は自ら望んだわけではないにしても、「なにもできない」どころか、大きな影響力を持つことになった。そのことは自覚した方がいい。
それゆえ、矢面に立たされている。

日本政府・主催の東京都の問題」というのは、そのとおりではあるのだが、そのロジックはまるで戦時中の日本のようだともいえる。
「お国のために」と召集された兵士達は、ただひたすら戦場で戦った。
国民も「お国のために」と我慢し、堪えた。
「この戦争はおかしい」と発言することは非国民と呼ばれ、戦うことを拒絶すれば反逆者とされた。個人の意思は否定され、異論をいうことは禁じられた。
欲しがりません五輪開催までは」……そんな空気がきな臭い。

呪文のように唱えられる「安心・安全の開催」だが、「オリンピックが一大感染イベントになる」と警告する人もいる。

東京五輪「一大感染イベント」になる恐れ 米紙評論記事で「最悪のタイミング」と指摘:東京新聞 TOKYO Web

米紙ニューヨーク・タイムズは、日本で新型コロナウイルス感染が収まらずワクチン接種も滞る中で東京五輪を開催するのは「最悪のタイミング」であり、日本と世界にとって「一大感染イベント」になる可能性があると伝えた。

(中略)

また現在の五輪は「ドーピングや贈収賄、選手への虐待」などで「スキャンダルまみれだ」と強調。開催都市の住民強制移転を例に「五輪はホスト都市の貧しい労働者に苦しみをもたらした」などとし、今の五輪に「コストを上回る利益があるのか」と批判した。

感染対策に完璧はなく、ワクチン接種をしていても感染を完全に封じ込めることは難しいように思う。
一般人から隔離していても、選手間や関係者間でクラスターが発生するかもしれない。
なにしろ、選手と関係者を合わせて、約9万人(うち選手は1万5千人)が来日することになっている。そのうちPCR検査をすり抜けて1%がウイルスを持ちこむとすれば900人、0.1%でも90人であり、クラスターを発生させるのに十分な数だ。
選手自体もリスクにさらされる。

マスクが感染予防になるとは思わないが、選手はマスクをして競技をするわけではなく、無防備な状態だ。
空気感染を前提とすると、ソーシャルディスタンシングは3メートルでは不十分。これまでの感染予防対策の一番の盲点は、空気感染を前提としていないことだ。

新型コロナウイルスと同類のSARSウイルスは、水中での生息も可能だと考えられていることから、プールはリスクが高い可能性がある。
大会期間中に選手間でクラスターが発生すると、感動イベントは惨事イベントなるかもしれない。

現在は新型コロナとの戦時下にあると考えた方がいい。
銃弾ではなくウイルスが飛び交っている中で、平和の祭典をすることがいいのかどうか。
はたして、顛末はいかに?

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