ロボットはシュークリームの夢を見るか?


ロボット話の続き、その3(^_^)

「意識」がソフトウエアなのか?……と前回書いたが、ソフトウエアとしてプログラムを組まなくて、意識があるかのような反応を引き出すことは可能のようだ。

人の表情や行動は、すべてが脳で考えて命令を出しているわけではない。大脳を経由しないで、自立的に反応していることの方が多い。つまり、意識することなく反応する部分も含めて、「人間らしさ」が作られていることになる。

自立的な反応は自律神経系で処理されるが、それだけではない自立的な反応もある……というのが、以下の記事。

脳の指図は受けないぜ!:日経ビジネスオンライン

藤田:小腸の壁に存在しているセンサー細胞は、脳の神経細胞と基本的に同じ能力をもっていることが判明しました。認識、判断、命令の能力ですね。

神経細胞のニューロンを官僚組織の“キャリア組”とするなら、このセンサー細胞はいわば“ノンキャリア組”です。発生の母体がニューロンとちがって、“下層階級”の腸上皮なので、“草の根の細胞”といえます。ニューロンではないが、勝るとも劣らない働きをもっている。そういう意味で「パラニューロン」と名付けました。

これは面白い。
ニューロンに近い能力を持っているとするなら、小腸には「意識」はあるのだろうか?
それとも私たちが自覚している「意識」には、小腸からのフィードバックも含まれているのだろうか?

仮に小腸に意識があったとしても、「意識」の中から、脳に由来する部分と小腸に由来する部分を分離することは不可能なんだろう。
すべてをひっくるめて「自分」という意識なんだろうから。

ロボットで人間的な再現を試みるとき、人間の心に相当するもの(意識、魂、精神……等々)をソフトウエアとして組み込もうとしている。ソフトウエアで再現しようとしているのは、「心の表現」といったほうがいいかもしれないが。

ある条件下で、ある場面に遭遇したときに、どういう反応をするか、といったことをあらかじめ組み込んでおく。センサーによって入力された情報に対して、どういう反応をするかを、脳の代用となるコンピュータで判断してプログラムに沿った反応を選択する……と、概略はそういうことだろう。
条件がぴったりと合致すれば、想定された通りの反応をするわけで、その部分においては人間らしい反応になる。

だが、想定されていない場面に遭遇すると、用意された反応の選択肢がなく、無反応か場違いな反応をすることになる。あらゆる事態に対処するためには、無数の条件を設定しなくてはならず、膨大な情報量になってしまう。
学習するソフトウエアというのもあるが、すべてを学習できるわけでもない。人間の反応や行動を、すべて記述することは不可能だ。

プログラムに組み込むということは、「人間らしさ」を記述するということでもある。つまり、「意識」をソフトウエアとして再現可能だとすれば、意識とはなにか?…という答えを記述することに等しいことになってしまう。
そこまで人間自身のこと、脳のこと、意識のことは解明されていない。現段階では、意識の記述化、つまり「記号化」は不可能だろうと思われる。
元ネタの「人とロボットの秘密」の新しい記事に以下のような記載があった。

人とロボットの秘密:第3章-2 「親しみやすい」ロボットとは 記号論理の限界と芸術理論 中田亨博士の試み (2/2) – ITmedia News

 振り返ってみると、我々生物の長い歴史の中で、記号を操作する能力を得たのはつい最近のことだった。我々人間は記号を操作する能力を磨き上げ、類をみないほど複雑な脳を持った生物へと進化してきたが、実は、記号論理を持たずに生活していた時間のほうが長いのである。だから、記号は私の一部でしかなくとも、不思議ではない。

記号を操作する「わたし」は、どうやら私の一部でしかないのではないか。一見、突拍子もなく見えるこの知見は、実は、現代の認知心理学が導き出しつつある意識モデルとも、共通している。

意識を記号化できない……ということは、前述の小腸の「パラニューロン」にも結びつく。脳のニューロンと同等の能力を備えている「パラニューロン」は、脳から直接の命令を受けることなく、独自に判断して反応している。比喩的には、別の人格が存在しているようなものだ。
とすると、「意識」とは「思考」とは「心」とは何なのか?……というのが、ますますわからなくなってくる。
「意識」に密接に関係しているのが「記憶」だろう。

人格を形成するのは、過去の記憶に由来しているともいえる。感情表現や肉体的な動作についても、経験から導かれるものがほとんどだ。
しかし、記憶というのも、その実体はなんなのか?……というのは、まだ解明されていないらしい。

ひとつだけいえることは、デジカメやビデオのように、見たものの映像を、そのまま「記録」しているわけではないということ。ある風景を見たとき、その映像のデータが脳のどこかに保存されているわけではないのだ。
記憶は断片的な関連するパーツ(あるいはキーワード)が、ニューロンの発火パターンとして条件付けられ、その発火パターンが再現されるとき、似たようなイメージを再現する……という過程であるという。

つまり、なにかを思い出すとき、そのたびに脳の中でイメージが再構築される。画像ファイルをクリックして画面に表示するコンピュータとは、まったく異なる情報なのだ。
だから、記憶は思い出すたびに変質し、違ったものになっていく。常に上書きされてしまうわけだ。勘違いというのは、そうした必然から生じる。

文章だけではイメージしにくいと思うので、画像で例を挙げよう。
まず、原型のリアルな情景。

いろいろな食べもの

いろいろな食べもの


このシーンを記憶するとき、どこにもっとも注目するかによって、記憶のされ方が変わる。
たとえば、パイナップルに強い印象を持ったとすると、周囲のことは曖昧になってしまう。それが以下のイメージ。

食べもの(記憶のイメージ)

食べもの(記憶のイメージ)


すべてを記憶することは難しいので、選択的に情景の要素を記号化して覚えることになる。豆の数がいくつあるかなんて、普通は記憶できない。
そのイメージが以下。

食べもの(記号化のイメージ)

食べもの(記号化のイメージ)


そして、断片化され、記号化されたイメージを思い出すとき、欠落するものが出てくる。一度は記号化しても、再構築するときに抜け落ちてしまうものもある。
そうして思い出したイメージが以下。

食べもの(記憶の再構築)

食べもの(記憶の再構築)


パイナップと牛乳と魚しか記憶には残っていないというイメージだ。
欠落してしまった情報は多いが、それでもこれは記憶として十分である。似たような情景に再度であったとき、「前にも見たことがある」と結びつけることができる。それを補っているのが「想像力」というわけだ。

そういうことから考えると、「意識」というのは、パターンの積み重ねともいえる。

ニューロンのネットワーク中で、無数の組み合わせがある発火パターンの連携によって、ひとつの全体像が形成される。記憶がホログラフィック的とされるのも、発火パターンが積層したものかもしれない。

個々のニューロンは、情報を記号化しているわけではないが、全体像としては記号化しているかのように見える……と考えてはどうか?
単純化すると、ある発火パターンが起きたときには、ある反応をする、というシンプルな反応だ。スイッチを押せば電気が点くようなもの。

複数の発火パターンが起きると、反応の選択肢が増え、行動のバリエーションが増える。だが、複数の行動を同時に起こすことはできないから、選択肢の中からどれかを選ばなくてはいけない。そのとき、「記憶」からもっとも適切な反応……つまり、発火パターンが強化されている反応が優先的に選択される。それが「適切な行動」として反映される。正しいかどうかが問題ではなく、反応として適切だという判断だ。

(長くなりそうなので、また後日……)

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