野生生物保護の虚実

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野生生物保護の虚実

DorotheによるPixabayからの画像

 野生生物保護は人類の責務のようにいわれているが……
 トキの卵が自然孵化したとニュース速報で流すほど大騒ぎしたり、クジラの保護を名目にテロまがいの妨害をしたり、特定の種ばかりを保護することには違和感を感じていた。
 クマが人を襲ったといえば、問答無用で撃ち殺すし、捨てられた犬や猫は年間数万頭も「処分」されている。だが、一部の人を除いて、そのことを問題にする風潮にはない。
 保護される動物と保護されない動物の線引きは、人間の身勝手でしかない。
 そんな研究の記事。

CNN.co.jp:野生生物保護は「美しい種」が優先、生態系に影響も

この研究は「新しいノアの方舟――美しく有用な種に限る」とのタイトルで、カナダの農業機関の分類学者アーニー・スモール氏が寄稿した。それによると、絶滅の恐れがある種の中でも、人間から見て美しさや強さ、可愛らしさといった好ましい特性を持つ種は、そうした特性を持たない種に比べて保護活動の対象になりやすいという。

例えばクジラ、トラ、ホッキョクグマなど人気のある大型生物は保護のための法律が制定され、一般からの寄付も集まりやすい。これに対して蛇(ヘビ)、クモ、カエルといった生物は、生態学的には同程度の重要性を持つにもかかわらず、前者に比べて魅力が欠け、無視されることが多いという。

こうした傾向は生態系や食物連鎖のバランスに対してに重大な影響をもたらしかねないとスモール氏は言う。「特定種の保護にばかり力を入れることは、全体としての生物多様性を守るには不十分だ」と指摘。人間から見て魅力的に見える動物の方が生態学的な重要性が高いとは限らず、こうした選択の結果、人間のイメージや好みを反映した自然が形成される可能性もあると警鐘を鳴らしている。

 人間が環境を破壊して絶滅の危機に追いやったから、野生生物を保護する……というのが大義名分だが、それは詭弁でもある。
 過去、地球の考古学的な歴史の上では、幾多の大量絶滅があり、人間がいようがいまいが種は永遠に存続するわけではない。進化の歴史は絶滅の歴史でもある。ある種が絶滅することで、その生物が占めていたニッチに空きができ、そこに進化した種が生き残るチャンスを得る。
 恐竜が絶滅してニッチの空きができたから、原初のほ乳類である齧歯類が進化する余地ができた。それが人類の誕生につながった。
 保護活動を否定するわけではないが、現存する種が数千年、数万年、数億年……と続くわけではない。人類ですら、いずれは滅びる。1億年後、人類が生き残っていたら奇跡に近いだろう。
 地球の歴史、宇宙の歴史のスケールから見れば、人類が繁栄している期間は一瞬にしか過ぎない。人類が滅びても、もう一度進化の歴史をやり直すだけの時間は残っている。
 保護活動の意図は、人間の贖罪と自己満足のように思える。

 絶滅させた方がいいと思われている生物もいる。
 病原菌やウイルスだ。根絶したとされる病原菌……たとえば天然痘を撲滅したことによって、そのニッチに空きができて、別の病原菌が出現する余地を与えてはいないのか? 病原菌も生態系の一部であることには違いない。
 毎年流行するインフルエンザは、撃退するための抗生物質を使うことにより、一時的には押さえ込むが、新種が次々に登場する。ある型を封じ込めることで、ニッチの空きができ、なおかつ抗生物質に対抗する試練を与えることで、新種が誕生する条件を人間が作っているようなものだろう。
 害虫や害獣とされる生物は、絶滅させることが良しとされる。トキだって昔は害鳥扱いだったではないか。絶滅させたわけだから、害鳥だった頃の目的を達成できたわけだ。皮肉だけどね。
 蚊は伝染病を媒介する昆虫だから、駆除することは当然だと思われている。現在はやっていないが、私が子どもだった頃は、殺虫剤を大量に散布することが当たり前に行われていた。車からもうもうと白い煙状の殺虫剤をまきながら、住宅街を走っていたものだ。ときには飛行機から空中散布もやっていた。のちに、そうした殺虫剤が健康被害の原因になるとして廃れてしまったが、むちゃくちゃをやっていたのだ。
 しかし、蚊がいなくなったらそのニッチを埋めるのはどういう生物なのか、予想もつかない。蚊を媒介としていた病原菌は、別の媒介手段を探すだろう。それがどういう形になるのかは、誰も予想できない。そっちの方が恐い気がする。

 人間がある生物を絶滅に追いやることは、極力避けた方がいいのはわかる。
 しかし、ある生物を保護することによって、別の生物を絶滅に追いやることだってある。
 クジラは保護対象だが、クジラは食物連鎖の頂点に位置するため、増えすぎるとクジラが餌とするイカなどの軟体動物やオキアミなどの甲殻類が著しく減少するという説もある。なにしろ、クジラは巨体であるがために大食漢でもあるからだ。
 ようするに、自然環境は人間がコントロールできるようなことではないということだ。極論すれば、破壊と保護は同義語だともいえる。保護しているつもりが、破壊を助長しているかもしれない。その因果関係を把握できているとはいえないのが現状だ。

 環境保護というのは、つまるところ「人間に都合がいい環境の保護」である。
 行き着く先、そこだろう。
 人間が快適に過ごすためには、「クジラは保護するが牛は食い物なので殺して食べる」「蚊は不快なので殺すが、蝶は美しいから保護する」……ということだ。
 良し悪しの問題ではなく、人間にできるのはその程度のことだということを自覚するしかない。

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