神の対局にあるものとしての「悪魔」
 日本では「鬼」にあたる。
 そんな「鬼」に関する話題。
痛快だった万城目学の小説『鴨川ホルモー』

 安倍晋三氏は、平安時代に東北に勢力を張った安倍一族の末裔である。前九年の役で戦死した安倍貞任の弟、宗任は捕らわれて、伊予国に流罪となった。宗任の三男、季任が肥前の松浦党の配下に入り、さらに子孫が長門に移ったという。朝廷に仕えた安倍一族とは血縁にない。

 京都の朝廷にとって東北の雄の安倍一族は一時、「まつらわぬ者」の一族としてやはり「鬼」ととらえられていたはずである。日本はこれから“鬼”の子孫を首相として戴くことになる。

 鬼から現在の安倍氏に結びつけているのが面白い。
 なかなか皮肉の効いた記事だ。

 鬼退治は邪悪なものの退治だった。
 キリスト教での悪魔は、神と互角の力を持つ存在でもあった。
 ときに人々は悪の道に引きずり込まれ、忌むべき存在に変わる。
 魔術とは、キリスト教の教義からはずれた価値観・手法に基づく儀式のことだ。
 魔女はその典型だった。

 そもそも悪魔は、キリスト教から見た異教徒の神のことだ。
 つまり、異教徒=悪の宗教だったのだ。
 宗教がらみの紛争の根元はそこにある。

 鬼のルーツは、異国人だったとの説がある。
 体格や肌の色、髪の色の違う異国人……おもに西洋人は、古典的な日本人には「鬼」に見えたのだ。
 自分たちとは違う、異質なものに対する怖れから、相手を理解することを拒絶し、「邪悪」だと決めつけてしまう。それが鬼や悪魔のルーツなのだ。
 そんなことは大昔のこと……ではなく、現代でもそうした現象は続いている。
 鬼や悪魔は、人の心に棲んでいるのだろう。

LINEで送る
Pocket
LinkedIn にシェア