人生は物語のようなもの

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人生は物語のようなもの

0fjd125gk87によるPixabayからの画像

猫のクリが死んで、一晩が経った。
まだ心の整理というか、喪失感を埋めることができない。
今朝、出勤前にクリの亡骸を撫でた。
「クリ、行ってくるよ」
返ってくる返事はなく、冷たく、硬くなった感触があるばかり。
午後には、手配したペット葬儀屋が引き取りに来て、火葬にしてくれる。数日後には遺骨となって骨壺に入れられて、帰ってくる。
ペット葬儀屋は、過去3匹の猫たちもお世話になった「常憲社」。ペット葬儀屋としては古株で、実績と信用もあるところだと思っている。最近は、悪質な業者もあるようだからね。

人生は「物語」のようなものだと思っている。
私が主人公の物語だ。
辛いこともあれば、楽しいこともある。ときにはびっくりするような事件もある。平凡だと思いつつも、なにがしかドラマはあるものだ。
猫たちは私の物語の、重要な登場キャラだ。
物語を面白くしてくれる。
子猫の時から、寝食をともにし、一緒の時間を過ごしてきた。
彼らは生活の一部であり、人生の一部になっている。
私には欠かすことのできない、大切な存在。

今までの人生では、願いが叶うことよりも、思い通りに行かないことの方が多かった。
そう思う人は、少なくないだろう。
失敗や挫折、後悔のくり返し。
夢が実現したり、目標を達成したりといった成功体験は微々たるもの。
苦労しているわりには、報われることが少ない。
そういうときは、人生が虚しく感じられる。
ゲームのように、リセットしてやり直すことはできない。
失われたポイントは、簡単には復活できない。

高校生の時、死にたいと思うくらい、将来を悲観していた時期があった。
面白いことがない、楽しいことがない、嫌になることばかりで、自分の未来が見えない。
漠然とした「夢」はあったものの、あまりにも遠すぎて、手が届きそうになかった。

生きていることに、意味があるんだろうか?

高校生の私は、いつも自問自答していた。
高校生くらいで自殺する少年たちの気持ちは、痛いほどわかる。
考えすぎるくらい考えても、答えが見つからないもどかしさ。
周囲からの様々なプレッシャーにさらされて、心が折れそうになる。知識と経験が乏しい中でも、真剣に「生きる意味」を探した。

自分が生きていることの意味。
自分が存在していることの意味。
自分が自分であることの意味。

あまりに難しすぎるテーマで、頭の中がいっぱいになる。
だが、答えなんて、あるようでないものだ。
それでも、答えを出したいと思う。
高校生には結論なんて、出せるはずもない。
未熟な私は、答えではないが、ひとつの解決策を見いだした。

「自分がこの先、どういう人生を生きていくのか、見てやろうじゃないか。50歳まで生きれば、なにか見えるかもしれない」

それは方便だが、理由にはなった。
自分にどんなドラマがあるのか、見てやろう……と。
人生を物語にしてしまえ……という、楽観主義でもあった。
そう思うことで、ずいぶん精神的に楽になった。辛いことがあっても、物語の中の試練だと思えば……
「この次の展開は、どうなるんだよ?」
……と、客観的に自分を見ているもうひとりの自分がいた。

高校生の時に、50歳まで生きればいい……と思っていたが、その歳を過ぎても、まだ生きている。
まぁ、これはオマケみたいなものだ。
私の人生の物語は、いろいろなドラマがあった。そこに、猫たちが彩りを加えてくれている。

……と、こんなことを書いているのは、以下の記事に触発されたから。

Business Media 誠:野島美保の“仮想世界”のビジネスデザイン:ネトゲ廃人を脱するための3カ条 (1/4)

ゲームにはまるとは

会社員を辞めて大学院に入ったころ、オンラインゲームに出会った。今までにない高揚感を感じ、その日からほとんど家に帰ることができなくなった。研究室の床に毛布を敷いて寝起きし、通学の時間も風呂に入る時間も惜しく、ご飯もPCの前で食べた。勉強や仕事以外の時間を削った結果、1日の睡眠は2時間となったが、それでも体調が良いばかりか、苦学生ゆえの将来の不安も陰鬱とした気分さえも吹き飛んだ。初めて「世の中が楽しい」と思った。

(中略)

しかし、人が言うほどゲーム世界は特別なものではなく、自分らしさを発揮する場として、現実世界と大差はない。現実世界だからといって絶対的な真実があるわけではない。同じ事実を目の当たりにしても人によって受け止め方が違い、唯一絶対の見解などはない。実際の事実がどうであるかよりも、人がどう感じどう思うかが、人間社会を動かしている。人間社会という視点からは、現実が真実で、ゲームやネット世界が偽や空虚ということにはならない。

ゲームはそれほどやらないのだが、熱中する人の気持ちはわかる。
下線を引いたところは、「現実とはなにか?」の問いに対する、ひとつの答えだろう。

私自身は、人生というか日常を「物語化」してしまう。
恋をすれば、恋愛物語として、どう展開するか?……と考える。
私と妻との恋愛物語は、まぁ、ちょっと普通じゃないくらい波乱のあった物語だった。一時は、駆け落ち寸前までいった。
片思いで失恋したこともあるが、そのときは登場人物としての彼女は、主役になれなかった……と、思うことで傷心を癒した。
あるいは、面白くない現実に直面したとき、小説を書くことで「思い」を仮想世界で実現させたりする。そうすることで、精神的には落としどころを見つけられる。
私にとって、小説を書くことは、自浄作用にもなっている。

とかく、日常は退屈だったり、不満があったりするものだ。
会社に行くことで、ストレスを抱えることだってある。
「世の中が楽しい」というのは、大事なことだ。
苦しいことばかりで、楽しいことがなかったら、生きている意味を見失う。

私にとって猫たちは、楽しい時間を演出してくれる、重要なキャラクターなのだ。

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