コミュニケーションツールが進歩しても本質は変わらない(1)
コミュニケーションツールが進歩しても本質は変わらない(2)
……の続き。

芦田氏は、ネット時代の情報化を以下のように収斂させる。

第4回 Twitterとは何か(2) | BPnetビズカレッジ:ライフデザイン | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉

 情報化における情報量の拡大は、その意味で内面意志としての〈自己〉を貧弱化させるものでしかない。情報は多いが自己を再認する情報でしかなく、情報化が拡大すればするほど、自己は(ひ弱に)縮小していく。選択的な「私」の増大はむしろ再認的な「私」の縮小を意味している。

ネットと共に成長してきた24時間メディアは、24時間きつい自己他者管理を強いられる割には、退屈な自己他者が露呈するばかりだった。

ブログでは孤独すぎるくらいの自己管理、ミクシィ(mixi)ではうるさすぎるばかりの他者管理、携帯電話・携帯メールではまるで恋人同士のような友達管理。

Twitterのタイムラインは、その意味で、選択的な内面の現在を四方に拡散させる。目移りするように他者がタイムラインを通過するが、どれも親和的だ。

〈現在〉は平等に与えられているために、自己=他者融合が生まれているのである。

う~む(^_^;
このロジックがよくわからない。

「情報量の拡大」というのは、マクロな視点ではそうだが、個人レベルでは拡大などしていない。それは私が(2)で前述したように脳にインプットできる情報量には上限があるからだ。

拾える情報は大量にあっても、個人が持ちうる情報はたいして増えない。大部分の情報は外部記憶としてネット上に転がっているだけだ。使えない、あるいは使われない情報は、個人にとっては存在しないのと同等だ。

これはネット時代以前に、本が担っていた役割だ。調べものをしたければ図書館に行く。手間暇はかかるが、検索一発のネットと、外部記憶であるという点では基本的な構造は同じだ。

「ブログでは孤独すぎるくらいの自己管理、ミクシィ(mixi)ではうるさすぎるばかりの他者管理、携帯電話・携帯メールではまるで恋人同士のような友達管理。」
……というのも、そうかなー?…と、疑問に思う。
著者がそう思うのはわかるが、それは著者の関わり方の問題な気がする。

ブログと一口にいっても、私のブログのように、1日のアクセス数がやっと3桁のブログから、4桁、5桁の人気ブログまでいろいろだ。人気ブログは、もはや個人的な孤独なものではなく、マスメディア化している。

ミクシィにしても、熱心な人はミクシィ疲れなどといった状態に陥ったりもするが、のんびりやってる人はごく少数の仲間内の連絡網代わりだ。
ケータイについても、私なんかは、ただの連絡用デバイス。ケータイで友達管理なんかしたりはしない。そういう意味では、ケータイとの密着度は低い。
ようするに、ツールとしての使い方の違いだろう。

そもそもメールがこれほど一般に浸透するなんて、パソコン通信の時代に誰が想像しただろうか?
私は1990年代の初期から、パソコン通信を使って、仲間とメールで連絡を取り合ったり、テキストデータの受け渡しをしていた。フロッピーディスクを持ち運びすることなく、データを相互に瞬時に転送できるメールは、重宝したものだ。

だが、その私ですら、ケータイ電話でメールができるようになり、メールで妻に「これから帰る」なんていう一言メッセージを送るようになるなんて、思いもしなかった。
当時のパソコン通信のニフティには、フォーラムやパティオといった、閉鎖系の掲示板があった。

それはインターネット時代の掲示板サイトの原型であり、Twitterのルーツでもある。システムとしてはシンプルで、使い勝手もよくないものではあったが、そこに参加している人たちの書き込みが、時系列で表示されて流れていく点では、Twitterと基本は同じ。
仲間内だけの掲示板では、まるでチャットのように書き込みが繰り返され、「いまどうしてる?」状態だったりもした。

そんな私から見ると、Twitterは古くて新しいコミュニケーションの手段にしか見えない。
大きな違いは、閉鎖系だったものが開放系になったことだ。
規模が大きくなったことが、Twitterの新しいところなのだ。

で、「Twitterのタイムラインは、~ 親和的だ。」とくるのだが、どこが親和的なのだろう?
だらだらと流れていく書き込みは、多くなればなるほど読み飛ばす……というより、見ることもなく飛ばす。親和的というより排他的のような気がする。

それは新宿の大通りを通り過ぎる、たくさんの人々と同じだ。すれ違うけれども、赤の他人で関心を向けることはまれだ。
あるいは、満員電車に乗り合わせた人々。今朝は電車が少し遅れて、いつもより混んでいた。ギュウ詰めになると赤の他人と密着することになる。恋人ですら、こんなに密着しないだろうというくらいに。窮屈なことを、互いに我慢して乗る。我慢しなかったら乱闘になってしまう。異常な距離感なのだが、これに慣れている通勤客は、ある種の暗黙の合意が形成されている。

お互い、我慢しよう……と。
身長の低い女性は、周囲を背の高い男に囲まれると、いい気持ちはしないだろう。それはこっちも同じ。目の前に女性がいると、できるだけ接触しないようにと心がける。あらぬ疑いをかけられたくないからだ。

たまたま乗り合わせた乗客は、近い距離で「現在」を共有する。
だからといって、親和性などとは無縁だ。
あるのは、排他的な関係だけ。

Twitterでフォローしたり、フォローされたりという関係は、電車に乗り合わせた関係にも似ている。
フォローするときは、フォローしてみようという積極的な意思が働く場合もあるが、フォロー返しで儀礼的にフォローする場合が大半ではないだろうか? 数百人、数千人、数万人のフォローなんて、つながりはほとんどないだろう。だとするなら、電車の乗客と大差ない。
そこに「自己=他者融合が生まれている」が起こっているとは、思えないのだ。

「自己=他者融合が生まれている」と思うとしたら、やはり「共同幻想」なのかもしれない。

(もう少し、つづく)

コミュニケーションツールが進歩しても本質は変わらない(3)
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