リアリティと価値観の不確定性


『東のエデン』の神山監督と、セカイカメラの井口氏との対談記事。
これはなかなか興味深く、示唆に富んだ内容だ。
私も共感する部分が多い。

サイエンスフューチャーの創造者たち:技術に「希望を見いだしたい」──「東のエデン」神山監督×セカイカメラ井口氏 (1/3) – ITmedia プロフェッショナル モバイル

神山氏 それと、若者のリアリティーという面では、まず僕らの世代と今の若者の価値観に根本的な齟齬があると感じました。学生時代からケータイがあって、ネットが当たり前にあった状態で社会人になる今の若者は、やはり価値観が僕らと違う。「なぜ働かなくちゃいけないのか」とか、僕らの世代が疑問にすら感じなかったようなことを疑問として抱えている。アニメの世界でもセカイ系と呼ばれる、自分の悩みが世界の終わりとダイレクトにつながっているような作品が生まれ、それに共感する若者が出てきました。

その中で「現実では、自分以外は全員他人なんだぜ」ということを伝えないと、この若者たちが社会に出た時に、うまくやっていけないんじゃないかと思ったんです。これが作品を作る最初のとっかかりになったんですが、それを大上段から伝えても、彼らはおそらく受け入れてくれない。ならば、作品を通して彼らの気持ちの側になんとか立って、この社会とリアルに向き合うことの摩擦を軽減できないか、たとえ軽減できなくても社会に出ることへの希望を見せられないかという風に考え方を変えたんです。

井口氏 ネットが当たり前の若者の価値観が昔と違うというのは、すごくよく分かります。特に日本のネットの世界って独自の進化を遂げていて、その独自性ゆえに世間との摩擦やストレスも余計にある。それに対して、例えば梅田望夫さんは「日本のWebは残念」とか言っちゃったりするわけですけど、そう言われると僕なんかは無責任だなぁと思ったりするんですよね。

「日本のWebは残念」という記事については、過去に触れた。

参照→「日本のWebは「残念」なのか?

私は梅田氏とは歳は近いのだけど、ネットとかコンピュータに代表されるテクノロジーに対する感覚は、かなり違う。
むしろ、「東のエデン」の感覚の方が近い。
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何度も書いていることだが、私は世間一般にまだパソコンもネット存在しなかった高校時代(1975年頃~)からコンピュータに接してきた。コンピュータの発展とともに成長してきたし、ネットの誕生とその後の成長と変遷もリアルタイムに体験してきた世代だ。

もっといえば、テレビ放送が始まったあとに生まれた最初の世代であり、テレビアニメの黎明期から見てきた世代でもある。
お手軽なケータイやパソコンはなかったが、原初的なIT体験は高校生の頃から35年分くらい蓄積されている。

今の若者たちをネット世代というのなら、彼らの感覚というのはわかる気がする。
私の世代は、パソコン音痴と揶揄された世代でもある。

ただし、私は例外だが(^_^)。
早くからパソコンを所有し使っていた私は、周囲との違和感というのはずっと感じていた。
今でこそ、文章をパソコンで書くのは当たり前になっているが、パソコンを使える人は希少だった時代には、パソコンで入力してプリントアウトすることは「手抜き」と受け取られたりもした。書かれている内容ではなく、手書きで書く手間を惜しんでいるから「手抜き」とされたのだ。
バカみたいな話だ。

世の中がデジタル化されていない時代は、アナログ的な作業が仕事として優秀だとされていた。
価値観の軸足が、違っていたのだ。

SF小説の世界では、ネット時代が当たり前になる前から、サイバーパンクに代表される近未来像を描いてきた。
ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」が出版されたのは、1984年(邦訳は1986年)だが、当時はWorld Wide Webシステムが構築(1990年)される以前の時代だ。
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衝撃的な作品だったし、私も多大な影響を受けたが、現実のネット時代が到来する前に、すでにその「感覚」というのはSF小説によって疑似体験していたのだ。それはデジャヴとなって、今日に至っている。

「ニューロマンサー」の世界は、いまだに実現していないものの、その感覚的な部分は近くなっている。
ニューロマンサー的感覚があるから、現在のネット時代の価値観の変容にも、それほど違和感はない。むしろ、紆余曲折で遅々として進まない世界に、苛立ちすら覚える。

デジタル化が進んでいるとはいえ、まだまだ旧態依然としたアナログな価値観が世界を支配している。その最たるものは政治だろう。
まるで、ネアンデルタール人とクロマニヨン人が共存しているようなものだ。
世界が劇的に変わるには、旧人類が絶滅するまで待つしかないのかもしれない。

リアリティについては、ネット世代はネット上のバーチャルな世界と現実のリアリティを区別はしていないのだろう。
境界線は曖昧。
これもまた「ニューロマンサー的感覚」だ。

「最近の若者は、現実と空想を区別できない」などと若者論がいわれたりもするが、そもそも「現実とはなにか?」という形而上的な定義や物理的な定義が何か?……というのが必要だ。

アニメ「電脳コイル」に出てきたセリフでは、
「手で触れられるものが現実」
というのがあったが、逆説的には手に触れられないものは非現実になってしまう。
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私たちの周囲には、手の届かない、触れられないものや事例は無数にある。地球の反対側の国には簡単には行けないし、行ったことのない場所は非現実になる。テレビの向こうにいる人たちには触れられないから、見ているのはただの映像のピクセルでしかなく、映画と変わらない非現実だ。

主観的な視点から見れば、手の届く範囲は極めて狭い。現実は半径1メートル以内ということになってしまう。
だが、触れられなくてもそれが「現実」だとリアリティを感じられるし、世界が存在していることを確信できる。

その境界線はどこにあるのか?
実際に見ることも触れることもできない世界を「現実」だと認識するには、第三者の保証と検証が必要だ。それが科学であったりテクノロジーであったりする。

しかし、保証と検証をした第三者が正しいと、誰が保証と検証をするのか?……という矛盾も生じる。
結局のところ、リアリティとは、それがリアルだと「信じる」しかないのかもしれない。
観察者がいて初めて確定される不確定性原理の世界だ。

なんてことを書いてると、うちの彼女は「難しい」というのだ(^_^)
そう、難しいのだよ。

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