Twitterがなにかと話題になる。
 私はまだやってはいないが、どんなものかのリサーチくらいはしている。
 じつのところ、コンピュータとはパソコン登場以前の黎明期からつきあってきたし、パソコン通信の時代、インターネットの草創期も向き合ってきたから、Twitterにこれといって新鮮味を感じなかったりする。
 今風の味付けや機能があるのは当然だが、その原型となる技術やベースとなったコミュケーションツールは、過去にも存在した。
 ただ、昔はユーザー数が少なく、爆発的な人気や発展につながらなかっただけだ。それが圧倒的な数の威力で、浸透・発展しているのが現在の流行だと思う。

 関連した記事が以下。

伴大作の木漏れ日:Twitterで覆るコミュニケーション手法とその先 (1/3) – ITmedia エンタープライズ

 情報の発信側のメリットは何だろう。自己顕示欲の所産だけとは思えない。自己表現の手段は、ほかに幾つもあるからだ。ただし、それらの多くは、編集者の意図が介在する旧来型のメディアである。一時間のインタビューがわずか30秒にまとめられるという不条理の世界だ。つまり、発信者側は常に欲求不満に陥りやすい。

 Twitterでは、こうした欲求不満に陥ることはない。コンテンツを送る側、受ける側にとって、Twitterはある程度の満足感を与えてくれる。お世辞にも「メディアとして完ぺき」とは言えないものの、「ベター・メディア」であるからこそ、これほど普及したのだ。

 この記事の筆者が書いていることに、初期のTwitterに関して……

そのころはつぶやいている人はごくわずか。まるで砂漠の真ん中で大声を出して助けを呼んでいる状態だった。しかも、英語で。

 というように、ユーザーが少数のときは、そんなものだ。
 Twitterがその機能と魅力を発揮したのは、規模が拡大し、狭いローカルから広大なマスに転換したからだ。そうでなければ、チャットに毛が生えた程度のものにしかならなかっただろう。

 つまり、Twitterは数の威力なのだ。

 最新の技術のように見えるTwitterだが、よくよく考えてみると、ネットがなかった時代、パソコンがなかった時代にも、感覚的に同種のコミュニケーション方法はあったことに気がつく。

 40歳以上の人は、中学生、あるいは高校生の頃を思い出して欲しい。
 世の中には、まだコンピュータが一般的に普及していなかった時代だ。ケータイメールで好きな人に告白するのではなく、郵便の手紙でラブレターを書いていた頃の話。

 学校のある教室。
 教壇に先生が立ち、一方的に授業をしている。
 真面目に授業を聞く生徒もいれば、早弁したり、漫画を読んだり、居眠りしたり、左右前後のクラスメイトとひそひそ話をしたりしている。
 ある男子生徒が、ノートの切れ端に、短いメッセージを書いて、隣の席の子に渡す。
 メモに書かれていたのは、
「放課後、○○通りにできた、ラーメン屋に行かねぇか? 行くヤツは名前を書け」
 メモを受け取った生徒は、ニヤリと笑って、名前を書き、前の子にメモを渡す。名前といっても、本名を書くわけではない。たいていはイニシャルやあだ名か、あだ名の省略形だ。
 メモは次々と手から手へと渡っていき、参加希望者の名前が増えていく。
 メモを受け取った女子は、名前は書かず次に渡す。
 しかし、女子は新たなメッセージをメモして、後ろの女子に渡す。
「女子限定。○○のケーキを食べに行く人!」
 メモは女子の間を回っていく。

 こういう伝言メモが、授業中に回っていた。
 ときにはうわさ話だったこともある。「A君とB子がつきあってる」とか。
 Twitterのイメージは、これに近い気がする。
 メモがメッセージであり、手渡しする相手がフォロワーだ。教室はネット環境に相当し、教壇の先生はつけっぱなしのテレビのような存在。
 黒板や机の落書きは掲示板、日直の日誌はブログ、壁新聞はホームページ、彼女彼氏との交換日記はSNSだ。
 そして、あだ名はハンドルネームに相当する。
 原型を辿れば、そんなところに行き着く。
 それらの衝動や行動の心理があって、そこにパソコンやケータイというツールとネットの環境が整えられて、今日のコミュニケーションの一端になっている。

 新しいメディアやツールを手に入れたが、根源的にそれを利用する動機は古くからあるのものではないだろうか?

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