昨晩、イヴの時間 劇場版を観てきた。
都内では2館でしか上映されていないが、池袋テアトルダイヤに行った。
初めての映画館だったが、ビルの地下にある小さな映画館だ。
客席数は少ないものの、座席はゆったりしていて座り心地もよかった。
スクリーンは小さいが、距離が近いので見た目の画面的には大きく感じる。

この映画はオススメだ!
なかなかの秀作である。

上映館数が少ないことからも、それほどヒットはしないと考えられているのだろう。
だが、

『サマーウォーズ』に比肩できる作品だといってもいい!

あらすじや背景は、以下のサイトを参照。

映画『イヴの時間 劇場版』 – シネマトゥデイ

ストーリー:子どものころからアンドロイドを人間視することなく、便利な道具として利用してきた高校生のリクオは、ある日、自家用アンドロイド、サミィの行動ログに不審な文字列が刻まれていることに気づく。親友のマサキと共にログを頼りに喫茶店、イヴの時間を訪れたリクオは、人間とアンドロイドを区別しない店のルールに驚く。

『サマーウォーズ』も、当初は上映館が少なかったが、ロングランになった。じつは上映中は観に行けなかった。ヒットしたとはいえ、上映館は限られていたためだ。Blu-rayを予約していて、つい先日観たばかり。
『サマーウォーズ』のレビューも、近々書いておこう。

さて、『イヴの時間 劇場版』である。

ネット配信されているときには、観ていなかった。
妻が「面白いよ」といっていたようなのだが、ほかのことに忙しくしていたこともあって、見る気力がなかった。
映画も、妻が「観に行きたい」といったからだった。

ロボットテーマもののSFだが、私はロボットテーマものが好きだ。
自分でもロボットもののSF小説をいくつか書いている(同人誌で)。
ロボットテーマは、「人とはなにか?」「意識とはなにか?」「感情とはなにか?」……といった、人間が持つ根源的なテーマを浮き彫りにする。
現状のロボット技術は、動作的に生物や人間を模倣させる技術の方に主眼がある。それすらも人工的に作り出すことが難しいからだ。

しかし、物語の中のロボットは、身体的な機能としては人間と同等かそれ以上。
そこに「心」があるかどうかが、テーマのポイントになる。

過去記事でロボットについての考察を書いたときにも触れたことだが……

「心」とはなんなのか?
「心」あるいは「意識」はどこで発生するのか?

明確な答えは出ていないし、哲学的な問題でもある。
私が思うに、

心とは相対的なもの

ではないかということ。
心は単独で存在し成立するものではなく、コミュニケーションを取る相手がいて、初めて形をとるのではないか?
我思う、ゆえに我あり」ともいうが、その「我」を規定し存在させているのは、他者の存在だ。
自分という存在を、誰かに認めてもらわないと、存在していることを証明できない。

その認めてくれる相手が、ロボットだったら?

それがこの映画の問いかけだ。

ロボット三原則なんていう古典的な要素を持ち出しているのには、ちょっと違和感はある。
この三原則でロボットの基本行動を制約するのは、じつはとても難しい。
作中でも、その穴の部分を指摘していたが、解釈が抽象的で数学のように答えがひとつにならない。
つまり、ロジックでは計算できない原則にもなっているからだ。
アジモフの三原則が、広く有名になったのは、それが極めてシンプルであることと、ロボット三原則といいつつも、じつのところ理想的な人間の三原則でもあったからだ。
人が作り出すロボットに、人間の理想像を重ねているのだ。

宗教では神は自分の姿に似せて人間を作ったとされる。
その神は、世界を創造する一方で破壊もする。慈悲と同時に罰も下す。神に似せられたはずの人間は、素晴らしい一面と愚かな一面をあわせもっている。
人間は自らの手で作る、自らに似せた存在のロボットに、神のような過ちを犯したくないのだ。
それゆえの三原則だ。

現実的なロボットが、この映画のような機能や感情を表現するようになるのは、まだまだ遠い未来だろう。
それでもロボットたちに感情移入してしまうのは、私たちに感情を投影する能力があるからだ。
愛情……あるいは愛情に似たものを、対象物に投影して、そこに価値あるいは意義を感じる。
そうすることで、自分と他者、自分と世界のつながりを確かなものにする。
心とは、そうやって平穏と安定を保つ。

ロボットでなくてもいいのだ。
猫でも犬でもいい。
うちの猫たちは、可愛らしいし、大切な存在だ。
私たちは愛情を注いでいるが、猫にはそんなことは通じない。猫は猫で勝手にやってるだけだ。
言葉が通じるわけではないし、意思の疎通なんてありはしない。
だが、勝手に誤解することで、気持ちが通じているような錯覚をする。
ある意味、バーチャルな関係だ。
私たちは猫たちを我が子のように思っているが、猫は飯をくれる相手としか思っていないだろう。
互いにいい意味での誤解で、いい関係になっている。

愛情とは、良好な誤解が成立している状態だ。

人間同士だろうか、相手がロボットだろうが、どんなに言葉を尽くしても、パーフェクトに理解し合うことなんてない。
それが独立した個人の宿命だ。
恋人同士が、何十回、何百回セックスしたって、愛情が深まりはするものの、同じ心を共有することはない。けっして、ひとつになれない。
だから「都合よく誤解」することで、納得する。
それを愛情という。

ロボットと人間という、異質だが似ているもの同士が向きあったとき……
心とはなにか?
愛情とはなにか?
この気持ちをどうしたのいいのか?
そんなことが、顕著に見えてくる。

そのことに気がつくことが、関係性の第一歩になる。

気づき、考えること。
家族のこと、友達のこと、恋人のこと、妻あるいは夫のこと、仲間たちのこと。
人間同士で、どれだけ理解しようとしているのか?
「イヴの時間」のような空間、本来の自分になれる時間が、少なくなっているような気がする。

見終わったあと……
ジーンと染みいるものがあった。
この映画は、現代社会への問いかけでもあると思う。

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