パソコンとネットに関する昔話(^_^)。
度々書いているので重複することもあるが……。

私のコンピュータとのつきあいは、1976年頃からで、高校生だった時代に遡る。当時はまだコンピュータは個人で所有するものではなく、おもに大企業や大学が専門的に使うものだった。

私が通っていた高校は工学系の学校で、その中でも最先端の分野を扱う電子機器系の学科だった。
そこにコンピュータがあった。

とはいえ、現在から見れば、古色蒼然としたコンピュータだ。処理能力は、たしか16ビットで記憶媒体はカセットテープか紙テープだった。富士通のFACOMシリーズの、おそらく下位機種だが、資料を探してみたものの該当するものは見つからなかった。
参考→コンピュータ博物館

余談だが、1976年頃といえば、音楽ではプログレッシブ・ロックが全盛だった時代。YESとかEL&Pに熱狂したものだ。アナログ式のシンセサイザーを使った音楽は、時代の最先端だった。和音が出せないとか、ひとつのキーボードからひとつの音色しか出せないとか制約があったから、リック・ウェイクマンが何台ものシンセサイザーを重層に設置して弾いていたのが格好良かった。

その後、パソコンが登場するが、私が最初に使ったのは、NEC PC-6601で1983年のことだった。
つまり、1983年からキーボードを叩いて文章を書いている(^_^)。
そんな昔話関連の記事が以下。

Business Media 誠:上杉隆×小林弘人「ここまでしゃべっていいですか」(1):もう引き返すことはできないのか? ネットとメディアの関係 (1/4)

1994年といえば、日本のネット人口は5万人もいませんでしたね。

(中略)

上杉 評論家の立花隆さんが『インターネット探検』という本を書かれたのは1996年。しかし立花さん自身、いまだに手書きで原稿を書いていますから。

小林 当時、WIREDで取材したときには、作家の村上龍さんもインターネットを利用していませんでした。「それはいいよ。分かっている奴に任せるよ」みたいな感じで。そのあと、インターネットについて熱く語っていたので、思わず失笑しましたね。

OSがMS-DOSだった時代は、NECのPC98シリーズを使っていた。パソコン通信もPC98を使い、モデムが1200bpsというような時代だ。

MACを使い始めたのは、1993年頃からで、Macintosh LC520が最初だ。そして、この非力なマシンでDTPを始めた。

DTPソフトはQuarkXPressだが、バージョンは3.1だったと思う。当時は、まだDTPは普及しておらず、出版社や印刷所で対応しているところは極めて限られていた。DTPで完成直前までの原稿を作り、最終的には手作業による指定原稿で入稿するという、効率の悪い環境だった。

そんな時代に、DTPによるフルデジタルのコミック誌(いちおう商業誌で書店にも並んだ)を、私とスタッフ2人の、計3人で制作した。
1998年頃のことである。

現在は、ほとんどの漫画誌がデジタルになっているが、私たちが作ったものが、日本初だと思う(^_^)。
漫画原稿をスキャナーで取り込み、DTP上でネームを打ち込んだ。一部の漫画原稿は、主線をスキャニングしたあと、デジタルでカラーをペイント(PhotoshopとPainterを使用)してカラーページとした。また、デジタル出力するので、薄ズミでも関係ないため、モノクロ2値原稿に限定しない作品も掲載した。現在、行われている制作工程を、そのときにほとんど試した。

当時、原稿をスキャニングするのに、コストがかかってしまったが、現在であれば10分の1くらいのコストで可能になっている。
マイナーな雑誌だったし、おそらく漫画史にも残っていないであろうが、先駆的な試みだったのだ。(誌名は…伏せておく)

しかしながら、出版社が倒産し、制作料や作家への原稿料を未払いのまま、出版社の幹部は夜逃げしてしまった。雑誌は2号で潰れた。
デジタル・コミックの埋もれた歴史である。……5年くらい早すぎた(^_^)b

ネットに関しては、パソコン通信時代からメールや新聞記事のクリッピング・サービスを利用していたから、インターネット時代になったからと、特別な新鮮味はなかった。

個人的には、とっくの昔に、文章を書くのも読むのも、絵を描くのもデザインをするのも、デジタル化していたからだ。
パソコン通信は閉じた世界だったが、インターネットは開いた世界だったのが、大きな違いだ。
WEBサイトは、1996年から開設した。

その頃は、HTMLを簡単に作るソフトがなかったから、記述を手打ちだった。そこにPageMillが登場した。このソフトの日本語版が出る前に英語版を購入して活用した。

15年でたしかに進歩・浸透した。
ユーザー数が劇的に増えたことが、最大の変化だが、基本的な部分は変わっていない。
基本とは、テキストが主流だということ。

当初はインターネットの利用料が従量制だったから、コスト的にも高くつくため、重いデータの画像は敬遠された。いかに軽くするかというのが、WEBページの鉄則だった。
それが定額制になり、ブロードバンドになり、大容量のデータでも可能になった。それに合わせて、画像を多用したページや動画を主体としたものが出てきた。
それでもなお、テキストが中心だ。

ライブでの映像と音声での通信も可能になっているが、主流にはなっていない。ライブだと、物理的に時間を拘束されるからだろう。テキストであれば、タイムシフトが可能であり、リアルタイムに拘束されることがない。キーワードを拾うことで、読み飛ばしや要約もできる。
テレビの視聴がレコーダーによるタイムシフトが中心になってきたように、リアルタイム性というのは一時的な注目は集めるものの、主流にはならないのではないかと思う。

WEBの特性もタイムシフトにある。
サーバー上に蓄積された各種データを、目的と必要に応じて引き出せることが、ユーザーの求めるものではないだろうか?
新旧入り乱れた情報が混在しているわけだが、それらの膨大な情報の中から、いかにして目当ての情報を探り出すかが、WEBに求められるものだ。
情報の新鮮さと同時に過去の情報も並列して存在する。

WEBでビジネスを展開するとき、往々にして新しい情報ばかりに偏ってしまう。ユーザーが必ずしもリアルタイムで見ているとは限らないのだから、タイムシフトを前提とした情報の提供を考えないといけない。

過去に蓄積した情報からも、なにがしかの収益を上げる方法を考えることが必要なのではないか?

WEBの力……というのは、突き詰めるとテキスト(文字)の力だと思う。
テキストによる表現は、ロジックであり知識と想像力を必要とする。文字というメディアが、古代に発明されて以来、根源的に持っている「力」だろう。
新聞離れとか本離れなどといわれるが、文字離れではない。稚拙なメールであれ、ニュース記事であれ、新聞や雑誌しかなかった時代よりも、多くの文字を読んでいるはずである。

紙の新聞や雑誌は廃れるかもしれないが、テキストの情報はますます増えるだろう。
情報媒体として、テキストは極めてシンプルで優れている。映像の迫力にはかなわない部分もあるが、映像をシンプルに表現することは可能だ。ときとして、そのシンプルなテキスト情報だけで十分な場合もある。

小説「ニューロマンサー」や映画「マトリックス」のような、現実と区別つかない電脳世界が実現したとしても、テキスト情報は生き残る。人が言語を使う限り、テキストは情報の基本だからだ。

パソコンや携帯電話、ネットは所詮「道具」である。
テキストを表現・伝達する手段だ。

WEBを活用するということは、テキストをいかに活用するかだと思う。
テキストは単純な文字の羅列ではない。
テキストから私たちは「イメージ」を浮かべる。
それはある1場面の記述だったり、物語だったりする。
WEBで表現されるものは、脳の中でイメージとして完成する。

Twitterのブームは、テキストへの原点回帰のような気がする。その速報性が注目されているが、実際にはタイムラグがあり、タイムシフトであることに変わりはない。
テキスト情報の蓄積性、タイムシフト性、イメージを喚起する表現性……それらの特性を活かすことが、WEBの魅力やビジネスへの発展になる……かもしれない。

マスメディア……特に新聞の衰退がネットの普及のためといわれて久しいが、そもそもネット上に無料の記事(ユーザーにとって無料ということ)を提供したのは新聞社である。

紙の新聞は有料で、ネットの記事は無料という自己矛盾。
新聞が活路を見いだすとしたら、ネットとは縁を切ることだ。新聞記事は新聞でしか読めない状況を作れば、新聞の価値は高まる。ネット上から新聞記事がなくなれば、ニュースへの渇望が起きる……かもしれない。とはいえ、今さらネットとは縁は切れないのだろう。自分からタダ売りしてしまったのだから、墓穴を掘ったようなものだ。

テレビの特性はライブ性にあったはずだが、最近は話題のスポーツでも録画放送したりしていて、自らライブ性を放棄してしまっている。バラエティ番組を生放送していたりもするが、その必然性は乏しい。

新聞もテレビも、そのメディアの最大の武器、特性が何か?……というのを忘れてしまっているようだ。

……と、話がそれてしまった(^_^;
続きは表題を変えて。

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