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以前のエントリー「アイデンティティの喪失」に関連した話題というか、補足的なこと。

ネットでの「匿名性」については、メリットとデメリットがある。
以下の記事も、その点について触れている。

私は二枚舌でしょうか? ~匿名の価値を認めつつ、怖いとも思ってしまいます。:NBonline(日経ビジネス オンライン)

日経ビジネスオンラインのコメント欄は匿名で記入することができますが、世間で言われているような「匿名という壁に隠れて好き勝手言いやがって」といった指摘は当てはまらない、「ポジティブな価値」を、私は感じることができました。
(中略)
日本に暮らす私は今、ネットの匿名性の価値を認めつつ、その刃が自分に向くことを恐れてしまっているのです。

記事の著者が恐れているのはデメリットの方だが、「匿名性」には2種類あるように思う。
それは、

●アイデンティティを意識した「匿名」
●アイデンティティを放棄した「匿名」

の2つではないだろうか。

区別することは容易ではないが、平たくいえば「良識ある匿名」と「良識なき匿名」ということ。
NBonlineの匿名によるコメントが、「ポジティブ」なのが多い理由は2つ。

1つには掲載が承認制であること。無条件で投稿が即時掲載されるわけではないことで、1クッション置かれているからだろう。
もう1つは、NBonlineという公共性が高く理知的な人が好むメディアであること。

とはいえ、著者によっては「良識なき匿名」も見られる。降旗氏のコラムなどはその典型だが、これには降旗氏が煽っている部分もあるように思う。

2チャンネルなどで炎上や祭りになってしまうのは、「場」としての空気が、「良識を捨てさせる」効果を生み出しているともいえる。群集心理にも似た、他の人がやってるから自分もやってしまう的な意識だ。

Yahoo!ニュースでは、記事によってコメントをつけられるようになっているが、そこでも何人かが「良識なき匿名」で書き込みをすると、それに追随するようにバカな書き込みが連鎖していく。

一方で、真剣な意見が多いと、匿名ではあっても真剣な議論が展開される。
その反応の境目が、「アイデンティティを意識」するかどうかだと思う。

匿名であっても、それを書いているのが「私」であると意識するかしないか。名前は出なくても、これは「私」の意見であると自覚することで、良識が保たれるのだと思う。

スダシン氏は、「果たして私は、二枚舌(ダブル・スタンダード)なのでしょうか?」と自問自答しているが、比較の対象となっているものが同じではないと思う。
「匿名性」というのを、ひとくくりにしてしまっているから、ダブル・スタンダードであるかのような感覚にとらわれている。

別の例を挙げると、
「人に嘘をつくことはいけないことでしょうか?」
という設問があるとき、悪意の嘘と善意の嘘があると思う。

人をだましてお金を取ることは詐欺で犯罪だが、ガンになっている人にガンとは告知せずに治療を受けさせるのは、その人の精神的なダメージに配慮してのことだ。
嘘をつくことが、理由や背景にかかわらず「悪いこと」であるとすると、人間関係は殺伐としたものになってしまう。

卑近な例でいえば、飲み会に誘われて、断る理由として嘘をつくこともあるだろう。本音は「あんたとは飲みたくない」とか「上司とは飲みたくない」と思っていても、正直に言ったら仕事でギスギスした関係なってしまう。そうならないための嘘は、悪いことにはならない。

「匿名性」が、良いことか、悪いことか、という比較は、「嘘」の良し悪しと同じ事ではないだろうか?
つまり、

アイデンティティを意識した「匿名」は価値あるものだが、アイデンティティを放棄した「匿名」は愚かなことだ。

という認識をすればいいと思うのだが……?

それはともかくとして、匿名でなければ自分の意見が言えない社会というのも問題があるだろうね。

日本は「みんなといっしょ」であることが暗黙の常識になっているから、ちょっと異質なものがあると、排除する作用が働く。いじめや差別は、その排除の情動から発生する。国際化とかグローバル・スタンダードとかが叫ばれていても、ガラパゴス化してしまうのは「みんなといっしょ」的環境から抜け出せないからだろう。

そうしたことは、サッカー日本代表で毎度いわれる「決定力不足」にも結びつく。そこそこのレベルではあるけれども、突出した選手がいない。海外で活躍する中村や松井が代表チームに合流すると、なぜか周りにあわせて突出感がなくなってしまう。まるで目に見えない呪縛があるかのようだ。

……と、話がそれてきたので、このへんで(^_^)。

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