アイデンティティの喪失

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A scene of masked people entering a cyber space.

A scene of masked people entering a cyber space.

現在のネットと人との関わり方で、様々な問題が表面化し、それがある部分では特異な社会現象や犯罪に結びついている……という論調が多くなった。

ネットの規制強化や匿名性ゆえの問題、あるいはメディアとしての功罪、著作権やビジネスモデルの変質……等々、多様な問題が発生している。
ネットが普及した現在と、それ以前の時代とは、あきらかに社会のありようが変わった。

その変化の本質な何なのか?
また妻に、「難しくて、よくわかんな~い」と言われそうだが、そのへんを考えてみよう。

まず、関連した記事を紹介。ちょっと長い引用だが。

小寺信良の現象試考:「撮影」の暴力化について考える (3/3) – ITmedia +D LifeStyle

 多くの場合中傷が書き込まれるのは、自分は匿名という安全性が確保された上で、誰が発言したのか特定できない状態だからである。普通の良識があれば、本人を目の前にしてリアルでそのような発言はしないだろう。なぜならば、その場で張り倒されたり、周囲の人から中傷したことを非難されるからだ。中傷発言に対するリスクが大きすぎると予測できるから、やらないわけである。

では匿名性を排除して、なんらかのユーザー情報を取ればいいのか。だがそうすればおそらく、書き込む人が居なくなってしまうだろう。本来行なわれるはずだった有意義な発言も、一緒に失われてしまうかもしれない。

では匿名性を維持した上で、モラルを意識させることは可能だろうか。ここで無責任な中傷は、自分のことを棚に上げることで可能になると仮定してみる。例えばイチローの三振を非難できるのは、自分がイチローより優れたバッターであるかという問題を棚上げするから可能なのである。

この理屈で行けば、自分の姿を顧みれば、他人の容姿を中傷することは難しくなるはずである。したがって今回のようなリアルタイムの書き込みを行なう者は、システムとしてWebカメラで自分撮りすることを必須にすればいいのではないか。そのカメラの映像を公開する必要はないが、つねに画面の片隅に自分の顔が写っているわけである。すなわち自分自身のアイデンティティを意識させることで、自分のことを棚に上げる精神状態に落ち込むことが阻止できるのではないか。

ネットで一番の特性といえば「匿名性」だ。

厳密にいえば、完全な匿名性は担保されていないのだが、「誰にもわからない」と錯覚してしまう。悪質な書き込みや犯行予告で犯人が突き止められるのは、発信源をある程度追跡できるからだ。

匿名だと自由に意見が書き込めるとか、悪意ある書き込みができしまうのも不思議ではある。顔が見えない、名前が見えないことで、言いたいことが言えたり、人から理性や自制や良識を奪ってしまうとしたら、なんとも愚かな人間性だろうか。

インターネット以前のパソコン通信の時代は、ネットの黎明期ともいうべき時代だった。

本名を名乗るわけではないが、IDという固有の「名前」が完全な匿名ではないという共通の認識になっていた。ニフティには様々なジャンルの数多くのフォーラムやパティオなどがあったが、それらに参加するときには参加者固有のIDが表示された。だから、あちらのフォーラムとこちらのフォーラムで参加している人のハンドルネームが違っていても、同一人物であることが特定できた。

ときにはフォーラムで激論が交わされることはあったが、今で言う「炎上」とは質が違った。感情論はあっても、罵詈雑言や誹謗中傷は少なかった。文字でしか議論できないから、それぞれに論破しようという意思と責任が感じられたものだ。それは相手の存在が、IDという形で見えていたからだろう。パソコン通信に参加する時点で、個人情報は運営会社に把握されており、その証がIDだったからだ。議論している者同士では、相手の素性は知らなくても運営会社には把握されている……という担保があったのだ。

本名を隠してハンドルを使うことはできても、個人の存在にまで覆面をすることはできなかった。悪質なユーザーはIDでブロックしてしまえば、参加を拒否することは可能だったからだ。

ある意味、統制された閉鎖系ネット社会だったのが、パソコン通信の世界だった。

インターネットが普及しはじめた初期の頃は、パソコン通信からの移行組が大半だったから、パソコン通信のモラルと慣習も一緒に持って行った。
しかし、その状態は長くは続かなかった。

ユーザーが爆発的に増えるにつれて、パソコン通信を経験していない人たちが大勢を占めるようになり、せっかく築いていたモラルや慣習も霧散していった。
インターネットに接続するには、プロバイダとの契約が必要であり、個人の情報はプロバイダには把握されている。しかし、多数のプロバイダが乱立したことにより、情報は分散され、「匿名性」が増すことになってしまった。

その匿名性が完全なものではなくても、「誰にもわからない」という錯覚だけで、ネットは自由と混沌と無秩序を生んでしまった。
「だから面白い」というのも一理ある。

本来「自由」には「責任」が伴うものだが、ネット社会は自由が「なにをやってもバレないからかまわない」という勘違いになった。
匿名性が自由な議論をうながす……ともいえるが、責任の所在がはっきりした議論になるかというと、必ずしもそうではない。

なぜ匿名だと、暴走してしまうのかといえば……

アイデンティティが喪失してしまうからではないだろうか。

・自分が誰だかわからない。
・素性がわからないから、他人を装うことができる。
・匿名だから、責任を取らなくてもいい。
・本性をさらけ出しても平気だ。
・他人の迷惑を考えなくていい。

……等々、匿名であることを理由に、好き勝手ができてしまう。
「自由」と「好き勝手」を同義にしてしまった。

アイデンティティの意味は……

1. 本人であること, 同一物であること;自己同一性, 帰属意識, (自己の)存在証明, 生きた[ている]証(あか)し;独自性, 自己認識;身元, 正体
2. 個性;独自性, 固有性, 主体性;(作家・芸術家などの)作風;芸風
3. 〔…と〕同一である[類似している]こと, 一体性, 〔…との〕同一性

……とある。
平たく言えば、「自分が自分であることの証明」ということだ。
その基本的な構成要素は、「名前」と「顔」だろう。
匿名性は「名前」と「顔」を隠すことで成立する。

匿名性は「自分が何者でもない」ということであり、匿名性を利用するということは「アイデンティティを放棄する」ことに等しいと思う。
言い方を変えれば、自分の存在を否定することであり、自分の価値を否定するようなことでもあるのではないだろうか。
それゆえ、何者でもない誰かは、暴走して罵詈雑言・誹謗中傷を平然と書いてしまう。

そうした感覚は、ネット上での錯覚であり、思い込みだ。
表面上は見えないことから、名前も顔もわからないと強気になってしまう。

なぜ、匿名だと強気になってしまうのかといえば、「責任」を持つ必要がなく、責められても雲隠れしてしまえば逃げられると思ってしまうからだ。だが、実際にはプロバイダ等を経由しているから、追跡はある程度可能だ。その仕組みを知らない人が多いのも、またネットの現状でもある。

現在のネットが「仮想世界」とされているのは、誤解と勘違いでもある。実際には画面上に文字とピクセルが表示されているだけであり、仮想世界はユーザーの「脳」の中にある。このことは前にも書いた

ネットで匿名性を利用して、掲示板に書き込みしたりするということは、自分の存在を「無」にしているように思えてならない。
アイデンティティのない者同士が、真の友達になれるはずもなく、孤立してしまうことは当然でもある。

それなのに「ネットで無視された」「ネットでも友達ができない」などということに悩んだりする人がいる。自らアイデンティティを捨てておきながら、なにも得られないことに不満を抱くことは、根本的なところで間違っている。

ネットでアイデンティティを喪失した人たちが、その感覚を現実世界にも持ちこんでしまうと、自分の存在価値や他人の存在価値にも無神経になってしまうのではないだろうか。
アキバや八王子の通り魔事件の犯人像を見ていると、そんな気がする。

ネット以前の時代は、コミュニケーションの範囲が物理的に手の届く範囲内が主体だった。名前と顔をあきらかにして人とつきあい、アイデンティティがコミュニケーションの柱でもあった。電話という手段もあったが、自宅と結びついた素性を明らかにするものではあったから、匿名ではなかった。

ネットはコミュニケーションの範囲を広大にして、世界中に、誰とでも接触できる世界を開いた。それは革新的なことだったが、なぜかアイデンティティを放棄して、匿名性という麻薬に溺れてしまった。

イメージ的な比喩でいえば、街中を行き交う人々が、覆面をして歩いているようなものだ。覆面をしたまま会話をして、誰であるかもわからず議論して、ケンカして、エッチをしているようなものだ。それがいかに異様であるかに、多くの人は疑問を持たなくなってしまった。というより、感覚が麻痺してしまったのだろう。

ネットをより正常化する方法があるとしたら、それはアイデンティティの再確立ではないかと思う。
自分が誰であるかを証明する。

それで自由がなくなるとは思わない。パソコン通信時代が不自由だったわけではないし、mixiなどのSNSは素性がある程度証明された環境だが、多くのユーザーが利用しているということは、責任の伴う自由があるからだろう。

そういう意味では、冒頭にピックアップした記事の自分の「顔」を意識させるというのは、有効かもしれない。
顔でなくても、自分の存在を証明する、固有のID表示を義務化することでも、ある程度の効果は期待できるように思う。完全な匿名ではないと意識させればいいのだから。

アイデンティティの喪失は、人間性の喪失にもつながっているように思う。

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