ネット時代特有の現象とはいえないもろもろのこと

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A world like the world in the movie "The Matrix", a world that is virtual, but where you are not aware that it is virtual.

A world like the world in the movie “The Matrix”, a world that is virtual, but where you are not aware that it is virtual.

 ネット時代になって、ネット上やそれを取り巻く環境で起きる社会現象を、ネット時代特有の現象として取り上げることも多くなった。
 たとえば、誰もがネットを利用できるようになって、個人でも情報を発信できる時代となって、マスメディアや出版社などを介さずに意見を主張したり作品を発表できる。
 そのことが、旧来のメディアや出版社のビジネスモデルを破壊することになる……といわれている。You Tubeやケータイ小説に代表される現象だ。

 あるいは、次の記事のようなこと。
仲良くするのはこんなに難しいのか~『友だち幻想 人と人との〈つながり〉を考える』 菅野仁著(評:澁川祐子):NBonline(日経ビジネス オンライン)

“携帯電話の無料通話サービスを利用して、友だちや彼氏と話もせずに携帯電話をかけっ放しにしている中高生がいる”

 という話が、最近ネット上で話題になった。通話状態の携帯を放置したまま、ゴソゴソという生活音だけをお互いにただ流しているというのだ。現実にかけっ放しをしている中高生がどれだけいるか、真偽のほどは定かじゃない。だが、正直「あり得るだろうな」と思った。

 これらのことが、ネット時代特有のことかというと……
 じつは違う。
 ネット時代以前にもあったことの、ネット版焼き直しなのだ。

 『個人でも情報を発信できる』ということに関しては、ネット時代以前では「同人誌」がその役割を担っていた。
 現在でも、コミケに代表される同人誌即売会はあるが、ネット時代以前と現在では、その役割や意義はまったく違っている。
 かつての同人誌は、個人が作品や論評記事を発表する、唯一の媒体だった。自費出版するための費用がバカにならなかったが、とにかく発表することが可能だったのだ。同人誌即売会は、その発表の舞台(売り場)として発生した。
 ただし、本という形での頒布だったため、行き渡る人数には限界があった。印刷コストの問題もあり、せいぜい100~200人に頒布できれば御の字だった。売れたからといって儲けになることはなく、多くの場合、赤字だ。
 それでも、出版社を介することなく、自分たちの作品を読んでもらえる貴重な機会であった。
 初期の頃の同人誌即売会は、参加している人が作品の書き手であり、買い手でもあった。私が初めて行ったコミケは、まだ参加サークル数が800くらいで、晴海の会場の1つを使い、その会場内に余裕があるような状態だった。かれこれ、41年くらい前の話。
 ネットという限りなくコストがかからないインフラが整って、個人が情報を発信するための垣根が低くなった。そういう意味では、あまりに恵まれた環境だ。
 Mixiなどのコミュニティは、かつての同人誌即売会という小さなコミュニティに通じるものがある。大きな違いは、かかわる人間の数が桁違いなのと、レスポンスを得るための通信手段が素早いことだ。
 郵便の手紙でコミュニケーションを取っていたのが電子メールになり、作品や記事を読んでもらえる規模が数百人から数万人になった。
 そこに時代の変化を感じるものの、基本的な構造は変わらず、私から見ればネット版に置き換えただけである。
 言い換えれば、ネットによる総オタク化である。

 『通話状態の携帯を放置』についても、私には既視感のある現象だ。
 それは「アマチュア無線」だ。
 電波の届く範囲という制約はあったものの、遠く離れた友人と自宅からいつでも話ができた。通信コストは無線機の電気代くらいでほとんどかからない。学生時代は、自宅で勉強しながら、友人とチャンネルを合わせて送信をON状態にしていた。つまり、特に話をするわけでもなく、つながりっぱなしである。
 ただ、無線は送受信が一方通行なので、同時に送信⇔受信状態にするには、無線機が2つ必要になる。たいていの場合、無線機は周波数帯の違う数台を持っていたので、これが可能だった。
 そのときの感覚は、時間の共有だった。
 部屋の中ではひとりだが、無線機を通じて向こうに友人がいる……という、ごく単純な事実が孤独ではないという認識を生んだ。
 深夜になり、「おれ、そろそろ寝るぜ」といって、無線機を切るときは、どっちが先に切るかというので、なかなか互いに切れなくなることがあった。そんなときは、なにがしかの会話を始めて、結局、朝まで語り明かしたということもあった。
 ネットや携帯電話では、通信範囲に制限がなくなったという違いだろう。
 アマチュア無線にも、同好会のようなコミュニティがあった。OFF会というのも、このころからあり、ネットでのOFF会もルーツはアマチュア無線かもしれない。

 前出の記事では、「つながり」に関連して「傷つきやすい若者」ということに関して、次のように書かれている。

 現代社会は欲望の対象の幅が広がり、なおかつ欲望を満たそうとするときの障害も少ない。そのことが、〈あり余る選択肢の存在が個々の魅力を減退させ〉ている。つまり、どの選択肢を選んだとしても「もっといい選択肢があったのではないか」と考えずにはいられない。そうした状況が、自己肯定感のなさにつながり、現代特有の生きづらさを引き起こしていると指摘する。

 それも一理あると思うが、私は少し違う見方をしている。
 ネットでのコミュニケーション方法は、主として「テキスト」である。
 メール、掲示板、SNSやプロフにしても、おもにテキストでメッセージの交換が行われる。
 文章を書くという、誰にでもできることではあるが、高度なテクニックを必要とする不完全な手段によって、ときに誤解や意図を明確に伝えられないことになってしまう。
 自分の意思を言葉で書くことは、じつは難しい。また、書かれていることの真意をくみ取ることも難しい。
 安易なようで、とても難しい手段でコミュニケーションを成立させようとするから、ちゃんとしたコミュニケーションが成り立たない。
 ブログの炎上や、プロフでのトラブルは、その不完全さ、稚拙さから事態が悪化する。
 これが会話によるコミュニケーションであれば、言葉足らずであったとしても、ニュアンスが伝わったり、何度もリアルタイムで説明を試みることで、ある程度の真意を伝えられる。
 アマチュア無線で、交信中に「炎上」するなんてことはありえない。喧嘩になることはあっても、不特定多数を巻き込むトラブルには発展しない。それはコミュニケーションが完結するからだ。
 ネットは、コミュニケーションが完結しない。延々とすれ違いの応酬が続く。それはテキストという不完全な手段に頼っているからだ。
 そもそものコミュニケーション手段としてのテキストが不完全でもあるにもかかわらず、成立しないコミュニケーションに対して疎外感や勝手な思いこみをしてしまうこと自体が問題なのだと思う。

 現在のネットは、機器やインフラの環境が限られているために、テキスト主体にならざるをえない。つまりは、未成熟なメディアということだ。
 映画「マトリックス」の世界のように、バーチャルでありながらバーチャルであることを意識しないような世界が実現したなら、現在のネットの問題などは、ネット世界が未成熟だったがゆえの問題だったと片付けられてしまうのだろう。

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