賢明な民衆は存在しえるか?

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賢明な民衆は存在しえるか?

Philipp FalkenhagenによるPixabayからの画像

 舛添都知事の辞職が確定したようだ。
 今回の一件に関して、小林よしのり氏は舛添氏に対するバッシングを「集団リンチ」と書いているのだが……

舛添都知事をギロチンにかけよと熱狂する民衆

舛添都知事をギロチンにかけよという民衆の声が静まらない。
都議会でもマスコミでも、集団リンチが続いている。

(中略)

「レ・ミゼラブル」のエピソードに倣って、コソ泥には
銀の食器を与えよ、反省して死にもの狂いで働くからと
言っても、聞く耳を持たない。

(中略)

民衆とはそうした愚昧な連中なのだ。

 「愚昧(ぐまい)」とは……

ぐまい【愚昧】の意味 – goo国語辞書

おろかで道理に暗いこと。また、そのさま。愚蒙。「―な人」

「―なる通人よりも山出しの大野暮の方が遥かに上等だ」〈漱石・吾輩は猫である〉

 ……の意だが、「愚昧な民衆」とは「愚民」ということになる。
 「愚昧」の対義語は「賢明」だが、では「賢明な民衆」とは存在しえるだろうか?……という疑問がわいた。
 「愚民」の対義語は、「賢民」になりそうなものだが、「賢民」という熟語は辞書にはない。「賢民」は造語になってしまう。
 誤解しそうなのが「良民」だが、本来は「良い民」の意味ではなく、階級制度のあった時代(奈良時代)の身分を表す言葉だ。辞書によっては「善良な人民。まじめな国民。」と記しているものもあるが、福澤諭吉の「学問のすすめ」あたりから派生した拡大解釈だと思われる。

福沢諭吉 学問のすすめ

 かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。

 ここに「良民」という言葉が出てくる。
 同時代の陸羯南(くがかつなん)の著作「近時政論考」(1891年刊)では、良民について……

陸羯南 近時政論考

吾輩はあえて議員諸氏に向かいてこの編を草するにあらず、世の良民にして選挙権を有し読書講究の暇なき者のためいささか参考の資に供せんと欲するのみ。

 ……と書いていて、選挙権を有していることが条件のひとつになっている。当時の選挙権は、「国税を15円以上おさめている満25才以上の男性に限られ、全人口の1%の人」だったことを考えると、富裕層が対象だったようだ。
※当時の15円は、現在の60万~70万円ぐらい

 「愚民」の対義語が「良民」と定義されていないのはなぜなのか? 字義に別の由来があるからなのかもしれない。
 「賢民」の語がないのは、個人としては賢明さを備えていても、民衆という大人数の集団になると賢明さを失い愚昧な人々になってしまう……ということではないだろうか。
 つまり、「賢民」が存在できないのであれば、民衆と愚民は同義語あるいは補完関係にあり、「民衆とはそうした愚昧な連中」という指摘は成立しないことになってしまう。人が数万人~数百万人~数億人と集まって「民衆」になると、「愚昧化」するともいえる。
 小林氏が、舛添問題での民衆のあり方を「愚昧=愚民」と批判するのであれば、「賢民」といえる事例を引き合いに出さなければ説得力が乏しい。
 
 「愚昧」の辞書に用例として出ている「吾輩は猫である」の一節が象徴的だ。
 「愚昧なる通人」とは不特定多数を指しているが、「山出しの大野暮の方」は個人もしくは少人数を指していると思われる。少人数のコミュニティであれば人間関係が密で、意見の集約も比較的容易だが、大人数の民衆になると全員一致の意見集約は困難になる。そのため、多数決をとったり、折衷案で妥協したりする。YESかNOで白黒をつける必要性が出てくると、個々の意見の細部は切り捨て、問題を簡素化して二者択一の結論を出すことになる。ある人が、100%賛成ではないが60%賛成ということで、YESに投票すれば不本意な40%の意見は無視される。民衆の規模が大きくなるほどに、意見や意思表示は絞られ、先鋭化していく。枝葉の部分は切り落とされ、1本の丸太になってしまう。
 それが民衆。言い換えると、愚昧化した人々の集まりが民衆だ。
 そして、民衆とは実体をともなわない仮想の存在でもある。誰も民衆を目視することができない。多くの人々という漠然としたイメージの産物なのだ。小林氏のイメージする民衆と、他の人々がイメージする民衆は同じではない。「こんな感じ」と想像しているのが民衆だ。
 東京都の人口は、約1351万人のうち有権者数は、約1077万人(2013年7月)。舛添氏に対する意見は、1077万通りあるはずだが、最大公約数で集約すると先鋭化された「辞任要求」になってしまった……ということだろう。

 小林氏は「レ・ミゼラブル」を引き合いに出したが、それはちょっと違うと思う。
 Wikipediaから該当するあらすじを拾うと……

レ・ミゼラブル – Wikipedia

その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、2本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。迷いあぐねているうちに、サヴォワの少年プティ・ジェルヴェ(Petit-Gervais)の持っていた銀貨40スーを結果的に奪ってしまったことを司教に懺悔し、正直な人間として生きていくことを誓う。

 ヴァルジャンは懺悔したが、舛添氏は自分の行為を正当化し、正直な証言をせず、懺悔もしなかった。「言えない」「記憶にない」というばかりで、誠実さを示すことはなかった。
 「銀の食器を与えよ」というが、都民は彼に「都知事」という座を与えた。銀の食器よりもはるかに価値のあるものだ。それを使って彼が真剣に仕事をし、正直な人間として、人々に称賛される成果を出せればよかったが、実態は違っていた。そのことに民衆は怒ったのだと思う。
 ヴァルジャンに置き換えるならば……

 マスゾエ・ヴァルジャンは、銀の食器を手に入れたことに味をしめて、銀の食器をもっと手に入れるために、同様の手段であちこちの教会で盗みを働いた。
 罪を重ね、逃げ続けたマスゾエ・ヴァルジャンだが、ついには捕まってしまう。
 裁きの場に立たされたマスゾエ・ヴァルジャンは、司教に許しを乞う。
「どうか、お許しを。今度こそ、心を入れ替えます」
 司教は失望感を露わに告げる。
「マスゾエ・ヴァルジャンよ。私が銀の食器を与えたのが間違いだった。もはや、私にはどうすることもできない。神のご意志にまかせるしかない」

 ……という筋書きになる。
 「学問のすすめ」には、以下のような一節もある。

福沢諭吉 学問のすすめ

また一方より言えば平民といえども悉皆無気無力の愚民のみにあらず、万に一人は公明誠実の良民もあるべし。しかるに今この士君子、政府に会して政をなすに当たり、その為政の事跡を見ればわが輩の悦ばざるものはなはだ多く、またかの誠実なる良民も、政府に接すればたちまちその節を屈し、偽詐術策、もって官を欺き、かつて恥ずるものなし。この士君子にしてこの政を施し、この民にしてこの賤劣に陥るはなんぞや。

 為政者が不正を働ければ、「良民」も賤劣に陥る……と説いている。
 そういう意味では、セコい不正ではあるが、舛添氏の行いに対してNOを突きつけた民衆は、愚民かもしれないがまだ良識はあったともいえる。
 不正利用が少額だから許してやれとか、言い訳に嘘をついても許されるとしたら、法律や倫理・道徳は守らなくてもいいって話になってしまう。人の上に立つ者が、それでいいのか?

 小林氏が「集団リンチ」の呼ぶのは、ネット上でバッシングの嵐が吹き荒れることをいっているだと思う。ネットのない時代であれば、飲み屋で「あの知事は首だよ、首」と話題にしたとしても、それが拡散することはなかった。個々の声は、半径5メートル以内で消えていた。
 それがネット時代の現在では、つぶやきが瞬時に日本中に広がる。小さなつぶやきでも、共感する人が多いほどに、大きな叫びになっていく。
 しかし一方で、バッシングに同調している数は、騒ぎの大きさほど多くはないという実態もある。数百人がつぶやきを発していると、あたかも日本中が同調しているような錯覚をしてしまう。人間の脳の処理能力には限界があり、大量の情報が一気に押し寄せると、「1つ、2つ、3つ……たくさん!」と、ひとかたまりに省略してしまう。
 処理しきれない数になるため、「民衆」という抽象化をしてしまうのだ。
 何人からが「民衆」なのか? 10人? 100人? 1000人? 1万人? そこに厳密な定義はない。
 少なくとも、1077万人が集団リンチに賛同したわけではない。

 個人的な希望としては、小林よしのり氏が都知事選に立候補したらいいのではと思う。知名度はあるし、主義主張もはっきりしているし、官僚や周辺の政治家からの圧力に屈することもないだろう。
 愚昧ではない小林氏なら、都政は正常化できるかもしれない。
 私は小林氏に1票入れるよ。

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