【サッカー】コンフェデ、勝てなかったイタリア戦だが…」の続き。

コンフェデのイタリア戦について、各紙、各サッカー専門家が称賛や批判の記事をいろいろと書いている。
批判することは必要ではあるのだけど、厳しい批判をするだけが今後のためになるとも限らない。

コンフェデ杯敗退は、ザッケローニの無策と臭い物に蓋をするメディアに責任がある(中山 淳) – 個人 – Yahoo!ニュース

対して、ザッケローニは無策だった。

ブラジル戦もそうだったが、ピッチで起こっている現象に対する処置があまりにも無さすぎる。これは選手交代に限ったことではないが、それはまさに選手任せとしか思えないようなベンチワークである。

3-3となった後に、内田に代えて酒井宏樹を投入する意味は何だったのか? そのベンチの意図を感じ取れた選手は本当にいたのか?

中村よりも先にハーフナーを入れる意味は何だったのか? アディショナルタイムにパサーを投入する意図は?

う~む……、それって結果論だよね。
もし、酒井が絶好のクロスを上げ、ハーフナーが得点していたら、「素晴らしい采配」ってことになったと思う。
そうはならなかったから、無策といわれる。

選手交代は、いつもバクチみたいなもんだ。ツボにはまれば名采配だが、目立った効果がなければ采配の意味がわからないという。
イタリアの交代だって、ちゃんと役割を果たしたから名采配と評価されるのであって、メキシコ戦の疲労が残っていて動きが鈍かったら、疲れている選手をなぜ出した?……ということになる。

私も、酒井宏樹より酒井高徳だろうとか、ハーフナーより乾だろうとか思うのだが、それは「イメージ」的な評価だ。その日、その時のコンディションなどは監督が一番わかっているのだし、期待値の高い選手を投入したのだと思う。その判断材料がない外野には、適切かどうかの判定は下せない。

また、「ブラジルでは……」「イタリアでは……」といった、サッカー文化の違いを日本に当てはめる論調も多いのだが、そりゃ、国が違うんだからサッカー文化は違うよ。ブラジルを真似すればより強いサッカーができるわけでもなく、サッカー環境も国民性も体格も言葉も違うのだから、目指すべきサッカーも違ってくる。

これは、最近よくいわれる「グローバル化」という問題にも関連している。
なんでもかんでもグローバル化が必要だといい、その手段として英語が必須だとか、欧米並みの能力主義が必要だとかいわれるが、それは必要なことの一部でしかなく、本質ではない。欧米化することがグローバル化なのだとしたら、極端な話、日本語を捨て、日本人であることを否定すればいいのかってことになる。
そうじゃないだろう。

日本人がやるサッカーなんだから、ブラジル的でもなくイタリア的でもなく、日本的なサッカーで世界に通用する戦い方をすることが必要なんだ。強豪国の強さから学ぶことは必要ではあるが、それはただ真似すればいいってものじゃない。真似から脱却して、日本人ならではの強さを身につける必要がある。
欠点をけちょんけちょんにけなして成長する場合もあるかもしれないが、欠点ばかりを追求するあまりにダメになってしまうこともある。

これは教育の場でもいわれることだ。良いところを褒め、良いところを伸ばす方が、総合的には能力や才能を発揮できるようになる。欠点をなくすのがいいことなのはたしかだが、欠点を補う長所を伸ばすことの方が、モチベーションを高められる。
甘やかすことと、褒めることは別物だ。

負けは負けだし、その現実は受けとめるとしても、善戦したことも事実。なぜ善戦できたかといえば、良かったところがあったからだ。その部分はきちんと評価して、褒めるべきだ。

その点、イタリア視点の日本に対する評価は冷静だ。まぁ、勝てたからいえることではあるのだが。

【イタリア視点で日本戦を分析】完璧に崩された右サイド。戦術でも上回ったザックジャパン | フットボールチャンネル

「今日の試合、僕らはとても運がよかった。それでも勝てたのは何故かって? 僕らが4点を取った一方で、彼らはシュート3本がバーに当たっていた。そのシュートが入っていたら日本は僕らより点が取れていた。違いなんて要するにそういうことさ」

(中略)

「いや、日本が凄く良かったんだ。あれだけ個々の技術の高い選手たちが、あれだけ高いインテンシティでサッカーをしてくれば、疲労いかんに関わらず誰が対戦しても難しい」

そう語ったのは、この日TV解説者として現地に訪れていた、元イタリア代表DFジュセッペ・ベルゴミだ。

多少のリップサービスがあるとしても、実際に対戦した選手の言葉として、正直な気持ちなのだろう。イタリア視点では評価されているのに、日本視点ではなぜ冷静に評価できないのか?

負けたから……というのが、評価されない理由だとしたら、それこそサッカー文化の視野が狭いように思う。課題は課題として取り上げるとしても、ここは良かったという評価も必要だ。それがなかったら、この先に期待できるものがなくなってしまう。

サッカージャーナリストの人たちが、なにかにつけて「ブラジルでは……」「ヨーロッパでは……」とサッカー文化の違いを持ち出すようでは、日本のサッカー文化はいつまで経っても途上国のままだ。当のブラジルやイタリアが、他国のサッカー文化を比較対象に持ち出すことは聞いたことがない。彼らには彼らなりのサッカー文化があり、それを誇りに思っているからだろう。

サッカー先進国を比較対象に持ち出すのは、劣等感の表れだ。劣等感を抱かざるをえないのも事実だが、だからといって卑屈になることもない。
日本は日本人として誇りの持てるサッカー文化を築いていこうじゃないか。
まだまだ年月はかかるだろうけど。

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