マンガ「聲(こえ)の形」の感想

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 聴覚障害の少女をめぐる、「いじめ」の問題を扱った漫画作品の「聲(こえ)の形」を、遅ればせながら読んだ。
 ニュース記事に紹介されていたのがきっかけだ。

聴覚障害、いじめ、青春――週刊少年マガジンの読み切り「聲の形」がすごいと話題に – ねとらぼ

 2月20日発売の週刊少年マガジン12号に掲載されている61ページの大作読み切り「聲(こえ)の形」。聴覚障害を持つ少女がクラスでいじめにあうという衝撃的な内容ながら、「とにかくすごい作品」だと大きな話題になっています。

 率直な感想をいえば……

 力作だとは思うが、それほど「すごい」とは思わなかった。
 読み切りのマンガとしては61ページは長い方だが、ストーリー的には話を詰め込みすぎで、あらすじのような印象がある。
 この作品の掲載を問題にした編集部側の意識は、過剰反応であるように思う。
 主人公が障害者でなければ、問題にはしなかっただろう。むしろ、一般的ないじめをテーマとしていたら、これほど注目を浴びることはなかったかもしれない。
 物語の視点が、いじめる男の子の方なので、聴覚障害の少女の内面的な部分はあまり描かれていない。彼が想像する彼女の気持ちと、彼女が本当に思っている気持ちは、おそらく違う。
 その埋められない「誤解」が、読後の違和感になっている。

 私の友人に、聴覚障害の人がいる。
 共通した趣味のサークル仲間なのだが、彼を含めた仲間たちと会うときは、基本的に筆談だ。筆談が容易にできるように、電子メモ筆談器を彼が持参してくる。
 短い言葉なら、彼は唇が読めるし、彼の発する不明瞭な言葉をある程度は聞き取れる。しかし、込み入った話になると、聞き取ることは困難になるので筆談だ。話の内容が、SFや科学の話だったりするので、専門用語乱発で筆談じゃないと伝わらない。
 手話を覚えるといいのだろうが、なかなかそこまでできないでいる。
 彼は耳は聞こえなくても、英語の原書を読めるだけの語学力がある。そんな能力は尊敬に値する。

 私の住むマンションには、視覚障害の人が何人かいる。
 マンション組合の理事をしているときに、視覚障害者のための対応をする必要があった。文書を配布するときに、紙の書面では内容を伝えられない。だが、メールでテキストを送れば、PCの読み上げアプリケーションで内容を音声で読んでくれる。簡単なことなのだが、当人から指摘されるまで理事メンバーは気がつかなかった。
 防犯のために、共有部分の鍵を変える問題が発生したとき、視覚障害者にとって使いやすいかどうかが議論された。防犯機能が高い、鍵と暗証番号方式の組み合わせが提案されだが、それだとボタンを押すのが難しいのではないかと思われた。
 エレベーターのボタンは、手探りで押していたようなのだが、わかりやすいように点字表記をボタンの隣に設置することになった。
 普段、あまり気に留めないことに「気づき」を与えてくれたことは、彼らに感謝しないといけない。

 公共の場では、視覚障害者のために点字ブロックや信号機で音を鳴らしたり、車いすなどのためにバリアフリーで段差をなくしたりしている。
 だが、聴覚障害のための設備というのはあまりない。標識や表示はあちこちにあるのだが、「ここに注意」というような場合の、聴覚障害者のための表示はほとんどない。
 たとえば、電車が駅に進入してくるとき。アナウンスで注意は呼びかけているが、聴覚障害者には聞こえない。ホームドアが設置されていない駅はまだまだ多いので、接近警報を視覚的にも知らせる必要があるように思う。
 また、電車の比較的新しい車両は、ドアの上の小さな表示画面に行き先や次の駅名を表示しているのだが、それもドア近くにいないと見えない。空いている電車ならドアの前に行けばいいが、混雑している電車ではそうもいかない。電車の中吊り広告のある位置に、大きめの表示画面を両面でつけるといいのになーと思ったりする。デジタルサイネージとしても使えるわけで、広告媒体としても有効だろう。

 マンガ「聲(こえ)の形」の話に戻すと……
 よくいわれることに、「相手の気持ちになって考える」というのがある。
 少年が辿った経過もそれだ。
 その姿勢が大切であることはわかるのだが、「相手の気持ちは、ぜったいにわからない」ことでもある。
 音のない世界……は、どんな世界なのか、私にはわからない。耳栓をして、外界の音を聞こえにくくしても、それは似て非なるものだ。
 自分の声すら聞こえず、外界の音がすべて遮断されている世界。
 想像はしてみても、実感としてわからない。
 私は音楽が好きで、いつも好きな音楽を聴いているが、音のない世界は恐怖の世界のように思える。
 音が聞こえない世界に生きている彼女には、音に関する言葉のイメージも実感として意味をなさないのではないか?
 思考は言葉によってなされるが、言葉の持つ意味やイメージが元になる。
 共通基盤であるはずの言葉の捉え方が違えば、考えかたも違ったものになる。
 理解したつもりになっていても、じつはまったく違った理解をしているのかもしれない。

 これは男と女、あるいは親と子の問題でもある。というか、人と人の根本的な問題だ。
 相手の気持ちを理解したいと思っても、なかなか理解できないこともある。気持ちを表現する手段として「言葉」を使うわけだが、言葉で表現するとこはなかなかに難しい。
 伝えようとしていろいろと言葉を駆使するが、表現力には限界がある。誰もが小説家のような表現力を持っているわけではないからだ。ある言葉に対して、受け止め方は人それぞれで、意図したことが伝わらないことはよくある。私の書く文章でも、さまざまな読み方、受け止め方がされると思う。
 広辞苑を引けばいいという問題でもなく、もともと気持ちの断片である言葉では、伝わることも断片的だ。

 理解することよりも、違いを許容することから始める。

 必要なのは、違いを受け入れることなのだと思う。
 子どものときは、許容できる器が小さいから、異質なものを受け入れられなくなる。もっとも、大人だからといって許容量が大きいとは限らないのだが。

 この作品を掲載することに抵抗感をしめした編集部の考えかたそのものが、問題だったのではないだろうか?
 いい作品だと評価して賞を与えたのなら、恐れることなく掲載すればよかった。
 今回掲載された作品は加筆修正されているらしいが、それが好ましい修正だったのかどうかが気になってしまった。

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